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知覧から出撃した特攻隊員の「一冊のノート」が語りかけるもの

2021年08月06日 公開
2022年07月05日 更新

安部龍太郎(作家)

博多湾から引き揚げられた97式戦闘機(写真提供:筑前町立大刀洗平和記念館)
博多湾から引き揚げられた97式戦闘機(写真提供:筑前町立大刀洗平和記念館)

大正8年(1919)、日本は対米戦争を見据え、大々的に戦闘機の生産にかかるため、福岡県に東洋一の規模を誇る「大刀洗飛行場」を建設する。戦時中、そこで多くの若者が戦場へと飛び立ったという。現地を訪れた直木賞作家・安部龍太郎氏は、ある少年飛行兵のノートが小説を書くきっかけになったと語る。この地を訪れた同氏は、何を想ったのか──。

※本稿は、安部龍太郎著「特攻隊員と大刀洗飛行場」(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

東洋一「大刀洗飛行場」

初めて大刀洗平和記念館を訪ねたのは、平成26年(2014)10月27日だった。その前日、私は朝倉ライオンズクラブに招かれ、ピーポート甘木でチャリティー講演をした。

朝倉高校、朝倉東高校、朝倉光陽高校の生徒450人を前に、「夢をあきらめないで」というタイトルで作家になるまでの体験を語った。

夢を実現するためには三つの手順が必要である。一つは、実現するまでの計画を綿密に立てること。一つは、実現に向けて不断の努力をつづけること。一つは、実現するまでの時間に耐え抜くこと。

そうした体験を話すことで、これから人生の荒波に乗り出していく若者たちに少しでも参考になればと、不器用ながら懸命に話をさせてもらった。

その夜は朝倉市内の旅館に泊まり、翌朝秋月城を訪ねた。紅葉に包まれた城下の一角から、剣道の朝稽古をする気合のこもった声が聞こえてきた。さすがは平安時代から続く武家の名門秋月氏の本拠地だった所だと感動し、許可を得てしばらく稽古を見学させてもらった。

その後城内を散策したが、帰りの飛行機までにはまだ時間がある。どうしたものかと考えていると、ふと久留米高専時代の友人が大刀洗平和記念館について話していたことを思い出した。

「知っとーや。あそこはくさ、戦前に陸軍の飛行場があったとぜ。そこの飛行機ば作りよった会社で、俺の親父は働きよったとたい」

懐かしい友の声に導かれるように平和記念館に向かった。西鉄甘木駅の近くから甘木鉄道に乗り、二つ目の太刀洗駅で下りる。すると目の前にかまぼこ型の格納庫のような記念館があった。

 

400人の遺影をながめて…

玄関の正面に受付があり、展示場の中央には400人ちかくの遺影をかかげてあった。戦闘や空襲で亡くなった方々で、写真の下には経歴や年齢が記してある。前日に講演を聞いてくれた高校生と同年代の方も多い。

あどけなさの残る写真をながめ、夢に向かって歩くことさえ許されないまま命を断たれたことを思えば、足を止めて亡くなったいきさつを確かめずにはいられなかった。

照明を落とした展示場の一角には、陸軍の九七式戦闘機(九七戦)が置かれていた。博多湾に沈んでいた機体を引き上げて修復したもので、実戦に使われた九七戦が残っているのは、世界中でここだけだという。

機体が持つ風格と美しさに心を打たれたが、その頃の私には九七戦と零戦のちがいさえ分からなかった。さらにぐるりと館内を回ると、緑色の機体に日の丸を描いた零戦が展示してあり、操縦席を見ることができた。

ちなみに九七戦は陸軍の、零戦は海軍の主力戦闘機で、日本が世界に誇る技術の結晶なのである。零戦の横には変わった形の戦闘機の模型があった。アメリカの爆撃機B29に対抗するために、終戦直前に開発が進められた震電である。

太平洋戦争の終盤、B29は高度1万メートルを飛行して、日本の主要都市に焼夷弾の雨を降らせたが、九七戦や零戦は高度6,000メートルほどまでしか飛べず、これに対抗することはできなかった。

飛べない原因は二つ。一つは操縦席に気圧と温度を保つ設備がないので、0.2気圧、零下50度ちかくなる高度1万メートル地点では、操縦士の体が守れなかったこと。

もう一つは空気が薄くなるので、空気を送る圧力を高めるターボチャージャー(過給機)を装備していないエンジンでは、飛ぶことができなかったこと。

この弱点を克服するにはどうすればいいのか。難問に挑んだ技術者たちは、機体の後方に巨大なプロペラをつけたロケット型の戦闘機を作ることにした。巨大プロペラの推進力で高度1万メートルまで一気に上昇させてB29を撃墜し、放物線状の軌道を描いて無事に帰還させようとしたのである。

しかしこれでは滞空時間が短い上に、操縦の自由も限られるので、急上昇する時の狙いがはずれたなら、軌道を修正することは難しいと思われる。無理がありすぎる計画だが、高度一万メートルに対応する技術を持たなかった日本軍には、他に取るべき術がなかったのだった。

館内には「語りの部屋」もあり、映画が上映されていた。「大刀洗1945・3・27」と題し、B29の空襲によって頓田の森で犠牲になった31人の子供たちの悲劇を中心に描いたものである。

当時の様子をおばあちゃんが孫に語って聞かせる構成で、頓田の森の悲劇ばかりではなく、大刀洗飛行場の歴史や戦前の様子も分かるように工夫されていた。

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