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松平定敬…戊辰戦争で朝敵とされ国を追われた藩主の「その後」

2021年09月20日 公開
2021年09月21日 更新

奥山景布子(作家)

桑名城址九華公園(三重県桑名市)
桑名城址九華公園(三重県桑名市)

大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した、会津藩主・松平容保の弟で、桑名藩主であった松平定敬。幕府を守るべく京都所司代を務めたことで、戊辰戦争が始まると「朝敵」とされてしまう。しかし定敬は、屈することはなかった──。

 

朝敵とされ、隠居に追い込まれた藩主

慶応4年(1868)の正月6日、徳川慶喜は密かに大坂城を出て、開陽丸で江戸へと向かった。この脱出──あるいは逃亡──劇には、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬の2人も同行させられていた。

2人は会津と桑名、それぞれの藩主だ。せめて家臣の誰かに告げてからにしたい──2人の懇願は慶喜によって厳しく却下され、それが後々、両藩を悲劇に陥れることになる。

「兄上、上さまはいかがなさるのでしょう」

京で、大坂で、船中で、江戸で──定敬は何度、容保にこう問うただろう。2人は父を同じくする兄弟だ。父である美濃高須藩10代藩主・松平義建は、容保が京都守護職を拝命してほどなく亡くなった。養子に行った先で苦労している息子たちを、彼岸の父はいったいどう見ていただろうか。

江戸で態勢を立て直して戦うのだ──そう信じていた2人の想いは裏切られ、2月、慶喜から江戸城への登城禁止、さらには江戸からの退去まで求められてしまう。

「国許の会津へ行くことになった」

兄からの書状を読み、定敬は途方に暮れた。伊勢国に位置する桑名は、東海道なら宮(尾張国熱田)の次の宿場町である。新政府が陣取る京からも近い。そのせいもあってだろう、国許では不在の定敬をよそに、早々と新政府への恭順を決めてしまっていた。

1月の末には国許からの使者が江戸へ到着、定敬が今「朝敵」として新政府から討伐の対象とされていること、国許では「隠居」とされたことを告げた。定敬にはもう、帰れる国許は存在しない。

「越後へ行ってはいかがでしょう」

江戸にいる家臣たちの間では、恭順派、抗戦派、双方の思惑が入り乱れていたが、とりあえず、飛び地のある越後の柏崎へ赴くことになった。長岡藩、河井継之助が用意した船に同乗し、海路で8日、さらに陸路5日を経て柏崎大久保の陣屋に入った定敬は、この時点でそこに集まっている家臣たちの多くが、恭順に傾いていることを察した。

──黙って新政府に屈せよというのか。しかし、なぜ自分や容保が朝敵なのか、定敬にはどこからどう考えても承服できない。薩摩や長州への不信感の強い定敬にとっては、恭順はただただ死につながる道でしかないように思われた。

 

援軍を求めてさすらう日々

転機は4月23日にやってきた。家中のうち、最も抗戦派と思しき家臣の1人と水面下で連絡を取り合った定敬は、恭順派の中心人物である重役を誅殺させた。

さらに、江戸から陸路で各地を転戦し、戦果を挙げている立見鑑三郎らを柏崎へ呼び寄せることに成功した定敬は、やがて、約360人の家臣を引き連れ、東北諸藩との連携を模索しながら、新政府軍への抵抗を続けるべく、柏崎を旅立った。

それから3ケ月後の7月、定敬の姿は会津にあった。抗戦派の拠点となっていた会津だったが、新政府軍の影は確実に迫っていた。一時は31藩が名を連ねた反新政府軍の同盟も、敗戦や藩内の方針転換などによって、櫛の歯が幾本も抜け落ちるように崩れていった。

8月23日の朝。雨の中、会津城下北東の蚕養口で、定敬は兄の容保と馬を並べていた。

「私はこれから城へ入る」

容保は籠城の覚悟を決めたようだ。

「どこまでもお供いたします」

しかし、兄の返事は予期せぬものだった。

「そなたはすぐにここから離れ、落ち延びてくれ」

心外だと驚く定敬の目をまっすぐに見つめて、容保が言葉を続けた。

「そなたにしか頼めぬことがあるのだ。援軍を呼んできてほしい」

良かった、兄上はまだ諦めていない──定敬は大きくうなずいた。2人は、互いの刀の鍔を合わせた。誓いの金打の音を雨が容赦なくかき消した。誓いは互いの胸の中にある。それで十分だ。定敬はまず、出羽米沢を目指した。上杉茂憲の正室は、定敬の姉にあたる幸姫だ。

しかし上杉の家中もすでに恭順に傾いており、茂憲とも幸姫とも対面は叶わなかった。27日、何の成果もないまま、定敬一行は米沢城下を出ることになった。会津に援軍を──味方を探し求めて、9月12日、定敬は仙台へ入ったが、得られるのは芳しくない話ばかりである。

仙台まで新政府軍の手に落ちるのを黙って見ているしかないのか──歯がみする定敬のもとに、思わぬ知らせが届いた。

「榎本武揚どのの率いる艦隊が沖に入っています。殿を開陽丸にお迎えしても良いと」

榎本は志願者を集めて箱館を目指し、新政府に対抗する拠点とするつもりだという。

――開陽丸。今年のはじめ、慶喜がこの船で江戸へ向かおうとした時、艦長の榎本は不在だった。「艦長の指示なしには出航できない」というのを、将軍──その時すでに"もと将軍"ではあったが──の威光で強引に向かわせたのだ。

そもそもあれが間違いだった。今開陽丸に乗ることで、あの間違いを取り戻せるなら。定敬は心を決めたが、乗船にあたっては、榎本から厳しい条件が付けられた。供は3人だけ、特別扱いはしない。それでも良ければ、というのである。

「分かった」

髷を落とし、頭を散切りにして、名前も一色三千太郎と変え、定敬は開陽丸に乗った。そこには、同じような身の上になった者が2人いた。備中松山藩主だった板倉勝静と肥前唐津藩の世子であった小笠原長行である。

松山藩は勝静を隠居させ、他から急遽養子を迎えて新たな当主とした上で、早々と新政府への恭順を決めてしまっていた。唐津藩では、藩主の長国が、長行を義絶した上で、やはり恭順を選んでいた。

桑名、松山、唐津の家中で、開陽丸に乗れなかった者たちには、土方歳三から「新選組に入るのなら太江丸で箱館まで連れて行ってやる」との申し出があり、定敬の家臣のうち、17名が入隊した。

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