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武田軍も鉄砲を使っていた? 「鉛の研究」で見えた長篠合戦の新事実

2021年10月12日 公開

平山優(日本中世史研究家)

平山優

武田勝頼率いる武田軍が織田軍に大敗した長篠の合戦――その構図は、旧式の騎馬軍団が先進的な鉄炮隊に敗れ去ったというのが常識的な理解だった。しかし、近年の研究でその常識は根底から崩れつつある。

※本稿は、平山優著『武田三代―信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 

「旧戦法」対「新戦法」の激突?

長篠合戦とは、いったいどのような意義がある戦いだったのだろうか。このような問いをわざわざ立てたのは、今も、歴史教育の分野で、長篠合戦は教科書において「(信長は)三河の長篠合戦で多くの鉄砲隊を使って武田氏の騎馬軍団を破った」(『改訂版高校日本史〈日本史B〉』山川出版社)と記され、それは、鉄炮3000挺を揃え、その連射(いわゆる「三段撃ち」)により、騎馬攻撃という旧来の戦法を撃破したという構図で語られているからである。

そこには、先見性に富む軍事的天才織田信長が、保守的な武田勝頼の軍勢(兵農未分離〈後進的な武田軍〉)に対し勝利した、という暗黙の理解が横たわっているといえるだろう。

だが、この10年ほどで、織田権力や戦国大名の軍隊編成に関する研究は飛躍的に進んだ。その結果、兵農分離という概念そのものが再検討を余儀なくされ始めている。織田も、武田も、在村被官の動員という点において違いはないどころか、そもそも兵農分離の実証研究が存在しておらず、イメージ先行という異常さなのである。

また、保守的な武田という点で言えば、武田氏が鉄炮を軽視していたということ自体が、事実に反することも明確になっている。武田氏は、天文24(1555)年の第二次川中島合戦で、300挺からなる鉄炮衆を投入している。そして、鉄炮の動員に関する、武田側の史料は、織田信長のそれを遙かに凌ぎ、その大量導入に躍起になっていたことがわかっているのだ。

これまで、武田氏の鉄炮装備については、信玄・勝頼が、家臣や国衆に発給した軍役定書(ぐんやくさだめがき)の記述に全面的に依拠して論じられていた。武田氏は、家臣や国衆の知行貫高に応じて、騎馬、長柄(槍)、鉄炮、弓などを賦課していた。この中で、鉄炮と弓は、およそ軍役人数の10%程度だったことが指摘されている。

これを念頭に鉄炮装備の割合を考えてみよう。織田・徳川連合軍の兵力は、長篠合戦時、3万5千余人だったといわれる。これを事実とするならば、鉄炮数は3000挺、この他に酒井忠次らの別動隊に預けた鉄炮は500挺とされている。そうすると、鉄炮数は3500挺となり、装備率は10%となり、武田氏の軍役定書から導き出される数値と同じである。

分母こそ異なるが、武田と織田は割合でみるとほぼ同率なのだ。武田軍も、約1000~1500挺は保持していた計算になる。

 

織田と武田は何が違っていたのか

では、いったい織田と武田では何が違ったというのか。武田勝頼は、長篠戦後、軍役改訂に乗り出しているが、その中で「鉄炮一挺につき、二〜三百発ずつ玉薬(たまぐすり:火薬と弾丸)を用意せよ」と指示している。武田氏は、鉄炮や玉薬を準備するよう繰り返し家臣らに求めていたが、弾丸と火薬の数量を指定したことは、これまでなかった。

この指示に、私は、勝頼が長篠から得た教訓が潜んでいると考える。恐らく、長篠合戦で、武田軍は、織田軍鉄炮衆に銃数だけでなく、豊富に用意された玉薬に圧倒され、まったく途切れることのない弾幕にさらされ、敗退したのだろう。逆に、武田軍鉄炮衆は、早い段階で、弾切れとなり、沈黙を余儀なくされたとみられる。

その違いはどこに由来するのか。それは、長篠城跡、長篠古戦場、武田氏の城砦から出土した鉄炮玉や、武田氏の鉄炮玉に関する文書から窺い知ることができる。長篠城や長篠古戦場からは、現在までに25個の鉄炮玉が発見されている。これらのうち、現存する21発について、化学分析が実施された。

分析されたのはほとんどが鉛玉であった。実は鉛は、サンプルさえあれば、化学分析により、採掘された場所の特定が可能な唯一の金属である。鉛は、埋蔵されていた地質環境により、その同位体比に変動が生じるからである。

分析の結果、長篠の鉛玉は、①国産鉛(日本国内の鉱山より採掘されたもの)、②中国華南、朝鮮産の鉛、③N領域(未知の東南アジア地域から採掘されたもの)、に分類された。その後、③のN領域は、タイのカンチャナブリー県ソントー鉱山から採掘されたものであることが確定された。

このN領域の鉛は、室町時代まで日本では確認されておらず、戦国時代に突如登場する。しかも、いわゆる「鎖国」を契機に、日本から消え、国内に流通する鉛は国産に限定されていくのだという。

戦国期では、鉛はおもに西日本での需要が急増していたといわれる。それは石見銀山の採掘が盛んとなり、銀の精錬技術である灰吹法(はいふきほう)には、鉛が必要不可欠だったからである。

ところが、戦国合戦が激化し、鉄炮の使用が拡大すると、鉛の需要は爆発的に増え、国内産では到底賄えず、海外からの輸入が増えた。中国や朝鮮との東アジア貿易のほかに、南蛮貿易による輸入が、日本における鉛の需要(銀精錬と戦争)を支えていたのである。

南蛮貿易が日本の戦争を支えていたのは、鉛だけではなかった。火薬の原材料である硝石も、海外からの輸入に頼っていた。

こうした日本の海外貿易は、九州や堺などが窓口になっていた。このうち、堺を掌握し、京都や畿内の物流を掌握したのが、織田信長だった。長篠合戦で、織田軍が鉄炮の大量装備と、豊富な玉薬の準備を実現できたのには、こうした背景があった。

これに対し、武田氏は、硝石や火薬、鉛の確保に苦しんでいた。たとえば武田氏は、富士御室(おむろ)浅間神社に対し、「鉄炮玉をつくるための銅を集めている。神前に投じられた賽銭(銅銭)の中から、悪銭を選り抜き、上納せよ。その代わり、黄金か棟別銭(むなべちせん)で補償する」と命じている。

この文書を証明するように、長峰砦跡(山梨県上野原市、中央自動車道談合坂サービスエリア付近)の堀跡から発掘された銅製の鉄炮玉は、化学分析の結果、中国からの渡来銭と成分がほぼ同じで、銅銭を鋳つぶして作成したことが判明している。長篠城跡出土の銅製の鉄炮玉も、化学分析の結果、中国の渡来銭と成分が一致することが今年判明した。

まるで、大戦中の日本の金属供出を彷彿とさせる事実である。鉄炮装備とは、まさに西高東低であり、武田勝頼は、懸命に鉄炮そのものと、玉薬の確保を行おうとしていた。だが、南蛮貿易や東アジア貿易の恩恵を、直接受けられぬ内陸国甲斐・信濃では、それは困難だった。しかも、どうやら織田信長は、武田・北条などの敵国に対し、経済封鎖を行っていたらしい。

このようにみてくると、長篠合戦とは、「新戦法対旧戦法」ではなく、豊富な物流と物資を誇る西国、畿内を背景にした織田と、それに乏しい東国の武田の戦い、つまり西と東の激突といえるだろう。むしろ、物量の差という側面こそを重視すべきである。

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