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頼朝・義経だけじゃない! 知られざる「源兄弟」たちのその後

2022年04月22日 公開

中丸満 (歴史ライター)

頼朝と義経以外の兄弟たちの人生

頼朝と義経には、ほかにも兄弟がいた。六男の範頼のほか、「悪源太」の異名を轟かせた長男の義平、義経の同母兄弟である全成、義円……。

平治の乱での敗北後、ばらばらになった兄弟たちは、いかなる人生を歩んだのか──。

※本稿は、「歴史街道」2022年4月号より、一部を抜粋編集したものです。

【中丸満PROFILE】
昭和47年(1972)、広島県生まれ。出版社、編集プロダクション勤務を経て著述業。日本の古代・中世史を中心に書籍や雑誌、ムックなど幅広く執筆活動を行なっている。著書に『平清盛のすべてがわかる本』『源平興亡三百年』『鎌倉幕府と執権北条氏の謎99』、共著に『よくわかる平清盛の真実』などがある。

 

源義平(よしひら/1141〜1160)...平治の乱で平家を苦しめた「悪源太」

源義朝の長男・義平は悪源太の異名で知られる猛将である。「悪」は現在のような不道徳や不義などの意ではなく、勇猛や剛毅さを表わす接頭語として、この時代にしばしば用いられた。

義朝が鎌倉を拠点として南関東に勢力を拡大していた頃にもうけた子で、母は相模の在庁官人・三浦義明の娘とされる(遊女とする説もある)。

弟の朝長・頼朝が早くから任官したのに対して、義平は長男ながら出自の低さのため、無位無官であった。しかし、武将として卓越した器量をもち、鳥羽院の近臣として在京する父に代わって、南関東の武士団を統率する役割を果たした。

15歳の時、義朝と対立し北関東で勢力を伸ばしていた叔父の義賢(木曾義仲の父)を、武蔵国比企郡の大蔵合戦で討ち取り、武名をあげる。この事件により、かねてから対立していた為義・義朝父子の関係は修復不可能となり、翌年の保元の乱における源氏の分裂を決定づけたといわれる。

平治の乱では、斎藤実盛・熊谷直実ら17騎の精鋭を率いて大内裏で平家軍と戦い、真っ先に六波羅へ攻め込んだ。しかし、源氏勢は敗れて京を脱出。義平は東国をめざす一行と別れ、再起を図るため地方武士の組織化に努めたが、義朝の死が伝わると、味方の武士は散り散りになってしまう。

そこで義平は単身京に上り、清盛の暗殺を企てたが重病にかかり、平家の家人・難波経房に捕らえられる。

六条河原で斬首される間際、義平は経房に、「雷になって蹴り殺してやる」と、呪いの言葉を浴びせたという。その予言どおり、8年後、経房は摂津布引の滝で落雷に打たれて亡くなったと、『平治物語』は伝えている。

 

源朝長(ともなが/1144?〜1160)...“父の手で”夭折した悲劇の若武者

義朝の次男で、母は波多野遠義の娘。波多野氏は代々摂関家に仕え、五位の位階をもつ相模の有力豪族である。勅撰集に入集される歌人も輩出するなど、坂東武士では珍しく高い教養を備えた一族であった。

朝長の祖父・遠義も従五位下の位階をもち、崇徳天皇に仕えた下級貴族であった。義平の母方の三浦氏より身分が高いため、朝長が義朝の嫡子になる可能性もあったといわれる。

事実、朝長は波多野氏の威勢をバックに、13歳で左兵衛尉に任官。保元4年(1159)には従五位下中宮少進となり、二条天皇の中宮・姝子内親王に仕え、中宮大夫進と呼ばれた。

しかし、後白河院との提携を重視する義朝は、上皇やその姉・上西門院と関係の深い藤原季範の娘(由良御前)が産んだ頼朝を嫡子に選んだ。この前年、朝長の伯父・波多野義通が義朝と対立し、相模に帰国したのは、朝長の処遇に不満を抱いたためと推測されている。

平治の乱に参戦したのは16歳頃だった。敗れて父とともに東国をめざす途中、大原に近い龍華越で延暦寺の悪僧の襲撃を受ける。この時、一族の源義隆 (八幡太郎義家の子)が討ち死にし、朝長も左股を射られて重傷を負った。

その後、美濃国青墓 (岐阜県大垣市)まで進んだが、過酷な逃避行により傷は悪化。歩行困難となった朝長は自ら死を願い出る。義朝は「がまんできるなら供をせよ」と励ましたが、朝長は「できるなら父の手で死にたい」と述べて自ら首を差し伸べ、父の手にかかり短い生涯を終えたという。

 

源希義(まれよし/1152〜1180)...内乱勃発とともに討たれた頼朝の同母弟

頼朝と同母の弟妹には希義と坊門姫の二人がいる。さらに「尊卑分脈」によると、頼朝と希義の間に義門という男子がおり、宮内丞に任官したとする。頼朝と同母だった可能性が高いとされるが、早世したらしく、事績は伝わっていない。

平治の乱の時、希義は8歳。合戦には参加しなかったが、父の死後、駿河国香貫(静岡県沼津市)で捕らえられ、土佐国介良荘(高知市介良)に流される。以来、20年を土佐で過ごし、土佐冠者と呼ばれた。

頼朝が伊豆で挙兵すると、希義に合力の疑いがあるとして、治承4年(1180)9月、平家は追討を決定する。平重盛の家人であった土佐の在庁官人、蓮池権守家綱と平田太郎俊遠がこれに応じた。

希義は、かねて盟約を結んでいた夜須七郎行宗と合流するため、介良城を出て夜須荘(高知県香南市)をめざした。しかし、年越山(南国市か)で家綱らに追いつかれ討ち死にし、首は京でさらされたという。

ちなみに、坊門姫は希義の流罪後、義朝の家人・後藤実基に預けられ、京で育てられた。公家の一条能保の妻となり高能を産むなど、頼朝と京都政界をつなげる役割を果たしたが、建久元年(1190)4月、難産により亡くなった。

 

源範頼(のりより/1150?〜1193?)...義経とともに鎌倉軍の総大将を務めた

義朝の六男で、母は遠江国池田宿の遊女という。蒲御厨(浜松市)で生まれたため、蒲冠者と呼ばれた。幼少期に京に上り、後白河院の近臣である藤原範季に養育され、一字をもらい範頼と名乗った。

内乱期は、異母弟の義経とともに鎌倉軍の総司令官として西国を転戦する。

最初の上洛戦では大手の大将軍として近江の瀬田から京に迫り、琵琶湖畔の粟津の戦いで木曾義仲を追討。一ノ谷の戦いでは大手の生田を攻めて、平知盛・重衡ら平家の主力を破った。

その後、頼朝の命により義経を京に残し、三浦義澄や北条義時、和田義盛ら有力御家人を率いて西国へ遠征する。しかし、軍船・兵糧不足のため平家追討は進まず、御家人たちの間には厭戦気分が漂った。

範頼はしばしば義経と比較され、凡将のレッテルを貼られることが多い。その理由の一つに、この西国遠征の長期化が挙げられる。

しかし当時、飢饉や災害で諸国は疲弊していた。兵糧の確保は容易ではなく、範頼でなくとも長期の遠征は困難だっただろう。

それでも範頼軍は元暦2年(1185)1月に九州に達し、筑前・豊後の平家勢の掃討に成功する。範頼軍による北九州制圧は、2ケ月後の壇ノ浦の戦いで平家の退路を断つ結果となり、源氏軍勝利の一因となった。

幕府草創後も源氏一門として重きをなしたが、身内に厳しい頼朝の警戒心はぬぐえなかったようだ。

建久4年(1193)5月、曾我兄弟の仇討事件が起こり、頼朝が殺されたとの誤報が鎌倉に届いた。嘆き悲しむ北条政子に対し、範頼が「私がいるので心配ありません」と慰めたところ、この言葉が頼朝にとって代わろうとする野心とみなされ、謀反の罪で伊豆の修禅寺に幽閉、殺害されるのである。

一説には仇討事件そのものが、頼朝の嫡子・頼家を廃し、範頼を擁立しようとするクーデターの一環であったともいわれる。

範頼には範円・源昭の二人の子がいたが、いずれも出家して武蔵の慈光寺に入り難を逃れた。範円の子・為頼は吉見荘(埼玉県比企郡)を安堵されて吉見氏を称し、子孫は石見や能登などで存続した。

 

阿野全成(あの・ぜんじょう/1153〜1203)...いち早く頼朝の挙兵に駆けつけた「悪禅師」

義朝は側室・常盤御前との間に全成・義円 ・義経の三子をもうけた。

全成は幼名を今若といい、平治の乱の時は7歳であった。醍醐寺に入って出家し、禅師公全成と称したが、血は争えず、「悪禅師とて希代の荒者なり」と称される勇猛な僧になったと『平治物語』は記す。

頼朝の挙兵後、弟のうちで真っ先に駆けつけたのも全成だった。以仁王の令旨のことを知ると、ひそかに醍醐寺を出奔し、修行者を装って関東に下向。治承4年10月1日、石橋山の敗戦から立ち直り、房総半島で勢力を盛り返した頼朝の鷺沼(千葉県習志野市)の陣を訪れた。頼朝は涙を流して全成の志に感謝し、翌月、源氏の祈禱所である長尾寺(神奈川県川崎市)を与えたという。

その後、全成は駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を領して阿野氏を称し、北条政子の異母妹・阿波局を妻とした。建久3年(1192)、阿波局が千幡(実朝)の乳母になると、全成も後見役として千幡を支える立場となる。

しかし、北条氏との近さが命取りとなった。頼朝の死後、将軍・頼家と北条氏との対立が激化すると、全成は突如、謀反の罪で常陸に配流され、八田知家により誅殺。子の頼全も京で殺されるのである。

全成の死後、阿野氏は駿河の地方武士として存続した。しかし、実朝暗殺後の建保7年(1219)、全成の子・時元が将軍職をねらって阿野郡で挙兵し、幕府の討伐軍に敗れて自害する。

その1ケ月後には、駿河国実相寺(富士市)の僧侶だった時元の兄弟・道暁も粛清され、阿野氏は没落した。

 

義円(ぎえん/1155〜1181)...墨俣川で討ち死にした義経の同母兄

義円は幼名を乙若という。平治の乱ののち園城寺に入って出家し、坊官 (事務を扱う僧) として後白河院の子・円恵法親王に仕えたという。母の再婚相手である藤原長成の官職・大蔵卿にちなんで 卿公円成と称し、のち義円に改名した。

内乱が始まると、尾張で独自に活動していた叔父の源行家と結び、平家打倒に立ち上がる。頼朝の命で行家と合流したとする説もあるが、義円が鎌倉に下った形跡はなく、自身の判断で行家と行動を共にしたのだろう。

治承5年(1181)2月、義円は行家とともに数万の軍勢で尾張から美濃へ向かった。対する平家は、平重衡を総大将とする追討軍を派遣。3月10日、源平両軍は尾張と美濃の国境・墨俣川をはさんで対峙した。

この日、重衡は源氏軍へ総攻撃をかける予定であった。たまたま重衡の舎人(雑用係)が馬を洗うため川岸に出て、源氏軍が渡河を開始したのを目撃する。平家軍は即座に攻撃を開始。6時間におよぶ激戦のすえ源氏軍は大敗し、敵陣に深入りしすぎた義円は、重衡の家人・平盛綱に討ち取られた。

一説には、功をあせる行家と義円が先陣を争い、源氏軍の指揮系統に乱れが生じたことが敗因ともいわれる。

27歳の若さで戦死した義円だが、幸いにも尾張国愛智郡司・慶範禅師の娘との間に義成をもうけていた。義成は長じて愛智蔵人を称し、従五位下下総守に任官。子孫は尾張の豪族・愛智氏として存続した。

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