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蘆名義広~伊達政宗に敗れた男、 流転の末に角館に小京都を築く

2022年09月29日 公開
2024年02月14日 更新

鷹橋忍(作家)

角館の武家屋敷
角館武家屋敷

戦国武将・蘆名義広の歩んだ道は、まさに流転とも言えるものだった。名門・佐竹氏に生まれ、白川氏の養嗣子となった後、会津・蘆名氏の家督を継ぎ、伊達政宗に敗れる……。しかし彼は、行き着いた先で、後世に誇れるものを遺した。
 

鷹橋忍(作家)
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『城の戦国史』『滅亡から読みとく日本史』などがある。

※本稿は、『歴史街道』2022年8月号から一部抜粋したものです。

 

蘆名義広、5歳で両親のもとを離れる

秋田県の角館は、「みちのくの小京都」と称される美しい城下町である。

深い木立に包まれた武家屋敷通りには、藩政期に建てられた武家屋敷と黒板塀が連なり、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になる。

桜の名所としても知られ、春には武家屋敷通りのしだれ桜や、桧木内川堤のソメイヨシノに彩られる。

この風情ある城下町の礎は、江戸時代のはじめ、蘆名義広によって築かれた。

蘆名義広は常陸国の太田(茨城県常陸太田市)を本拠とする佐竹氏の出身で、伊達政宗に「摺上原の戦い」で大敗し、戦国大名家としての蘆名家を滅亡へと導いた人物である。

佐竹氏の人間である義広がなぜ、蘆名氏を称し、政宗に攻められ、そして角館を築いたのだろうか。

蘆名義広は、天正3年(1575)に、北関東を代表する戦国大名・佐竹義重(1547〜1612)の次男として誕生した。母親は義重の正室で、伊達晴宗の娘(伊達政宗の叔母)である。幼名を喝食丸といい、伊達政宗より8歳年下だ。

義広は幼くして、両親のもとを離れることとなる。数え年で5歳の時に、白川城(福島県白河市)の城主・白川義親の養嗣子となったからだ。

白川氏は南奥(福島県域)の有力領主で、現在の福島県白河市を本拠としていた。

佐竹氏は、永正年間(1504〜21)から南奥への進出をはじめており、義重は白川氏および、白川氏を支援する蘆名・田村氏らと激しい抗争を繰り広げていた。だが、天正6年(1578)8月に、白川氏と和睦している。その和睦の合意事項の一つが、「義広が白川義親の養子になり、白川の名跡を継ぐ」ことであった。

翌天正7年(1579)正月、義広は白川城に入り、白川氏の家督を継いだ。これによって、佐竹氏は事実上、白川氏を傘下に従えた。

天正13年(1585)11月から、義広による発給文書がみられることから、このころまでに元服して、「義広」と名乗ったと思われる。

とはいえ、義広はまだ11歳の少年である。実質的に白川氏を取り仕切っていたのは、義広の養父・白川義親であったようだ。

もう少し年を重ねれば、義広が白川氏の当主として実権を振るえたかもしれない。

だが、2年後の天正15年(1587)、義広は白川氏の当主ではなくなる。蘆名氏の家督に選ばれたからだ。

 

蘆名家の混迷のなかで、ついに伊達政宗と激突

蘆名氏は鶴ヶ城の前身である黒川城(会津若松市)を本拠とし、長きにわたり会津地方に勢力を誇った、有力な武家領主である。

周辺の独立性の高い領主たちを服属させ、一族の骨肉の争いや家臣団の反抗などの試練を乗り越えて、戦国大名へと成長し、16世紀後半の盛氏(1521〜80)の時代に最盛期を迎えた。

ところが、当主の死が相次ぎ、蘆名氏の勢力は衰えていく。

まず、盛氏の生前に家督を譲られた盛興が、天正2年(1574)6月に、父に先立って病死してしまう。まだ28歳であった。

盛興には嫡子がなかったため、後継者には人質として送られてきていた二階堂盛隆が選ばれた(蘆名氏の外孫の血筋をひく)。

しかし盛隆も、天正12年(1584)10月に、家臣の大庭三左衛門に殺害されてしまう。まだ20代前半であった。そして盛氏も、天正8年(1580)に没している。

次の当主の座には、盛隆の子・亀若丸が就いた。亀若丸は、父・盛隆が死去する前月に生まれたばかりの、生後1カ月にも満たない嬰児であった。なお、同年同月に伊達政宗も18歳で、父・輝宗から家督を譲られている。

蘆名氏の悲劇は続き、亀若丸も天正14年(1586)11月に、わずか3歳で早世した。

亀若丸に嫡子がいるはずもない。家系断絶の危機に直面し、蘆名家中に動揺が走った。

蘆名家中は、白川氏に入っていた義広を盛興の娘(円通院・小杉山御台)の婿に迎え、蘆名氏の家督とすることを決めた。義広も、蘆名氏の外孫の血筋をひいている。

翌天正15年(1587)3月、義広は黒川城に入り、蘆名盛興の娘と結婚した。義広、13歳のことである。

この入嗣は、義広の父・佐竹義重が主導したという。蘆名氏は佐竹氏と抗争を繰り返していたが、天正5年(1577)ごろからは、協調するようになっていた。

蘆名氏の重臣のなかには、家督として伊達政宗の弟・竺丸(小次郎)を望む者がおり、義広を推す者との間に対立があったとされる。

しかし、亀若丸の死去時には、すでに蘆名氏と伊達氏は対立しており、政宗の弟が入嗣する可能性は極めて低かったとみられている(大石直正「戦国大名会津蘆名氏」〈『東北大名の研究』〉)。

義広の入嗣は佐竹氏と蘆名氏の結束を強めると同時に、佐竹氏と伊達氏との抗争を本格化させていった。

一方で、蘆名氏は度重なる当主の死と、他家からの入嗣などにより弱体化し、混乱が生じていた。さらに、入嗣に際して佐竹氏の家臣が付き人として義広に従ったが、彼らは佐竹の威光を振りかざして、蘆名氏の家臣たちを押さえ込もうとした。それが家中の動揺を引き起こす一因となったという。

佐竹氏と蘆名氏の間に挟まれて、年若い義広は苦悩したのではないだろうか。

そんな蘆名氏の隙を突くかのように、伊達政宗が激しい侵攻を開始する。

天正17年(1589)6月5日、蘆名氏の重臣・猪苗代氏が伊達方に内応したことがきっかけとなり、磐梯山麓の摺上原で、蘆名義広と伊達政宗の軍勢が激突した。世に知られる「摺上原の戦い」である。

この戦いに義広は大敗し、戦国大名としての蘆名氏は滅亡。伊達政宗の勢力は、急速に拡大する。

敗戦の理由はいくつか考えられるが、この合戦の前から、蘆名氏には不穏な空気が流れていたようだ。

同年5月23日付の大内定綱書状写によれば、佐竹氏は蘆名氏の援軍要請を家中の問題により断わっている。蘆名家中では、「それならば、蘆名義広を佐竹氏に返そうか」との意見が出たという。蘆名家中における佐竹氏への不満と、義広の基盤の弱さを感じさせる。

摺上原での敗戦後、義広は30騎ともいわれる僅かな近習たちとともに、蘆名氏の本拠・黒川城に戻った。黒川城に入った義広は、蘆名の重臣たちに、「すぐにでも開城し、佐竹に戻って欲しい。聞き入れないのなら、首を頂く」と脅されたと伝わる(『蘆名家記』)。

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