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武田氏と内通していた? 徳川家康が嫡男・信康に切腹を命じた真相

河合敦(歴史研究家)

 

「謀反」を認めた家康の家臣たち

いずれにせよ、徳姫の書状には夫や姑の悪口だけでなく、到底一笑にふすことのできない「謀反」という驚くべき一条が含まれていた。もし築山殿が本当に甲斐の武田勝頼と内通しているのであれば、信長は決して見過ごすことはできない。

それゆえ、酒井忠次に事実を確認したわけだが、『三河物語』によれば、忠次はすべてを肯定したのである。だからこそ信長は、「腹を切らせろ」と忠次に宣告したのだ。

なお、忠次から事の次第を聞いた家康は、「致し方ない。信長を恨むまい」と言いながらも、忠次に対し「お前が十カ条について知らないと言ったら、信長もこんなことは命じなかったのに、すべてその通りと答えたからこうなってしまった。お前のために腹を切らせなくてはならぬのだ」と責めたという。

すると、信康の傅役である平岩親吉が罷り出て「信康殿に腹を切らせては、あとで必ず後悔します。これは、傅役である私の責任。ぜひとも私の首を切って信長殿に渡し、信康殿の命乞いをしてください」と申し出た。

しかし家康は、「大器である信康に跡を継がせようと思っていたが、大敵の武田を抱えている今、信長の後ろ盾が必要。決して逆らえない。お前の首で信康の命が救えるなら、それも良いだろう。

しかし、忠次があのように言ってしまったからには、それは難しい。信康を喪ったうえ、お前まで失えば、さらなる恥辱である。非常に不憫であるが、信康を岡崎から追い出せ」と命じたという。

このように『三河物語』では、完全に酒井忠次の言動が信康の死につながったとして、彼を悪者にしている。

 一方、『松平記』にはどう書かれてるか。

手紙を読んで驚いた信長が、後日、家老の酒井忠次と大久保忠世を呼び出し、問いただしたことになっている。2人は「信康に何度も諫言したのに聞いてもらえず、以後、信康は自分たちと険悪になってしまった」と申し述べた。

すると信長は腹を立て「こんな悪人に徳川家を相続させると大事になる」と告げた。このとき2人が信康を弁護したら状況は違ったかもしれないが、忠次と忠世は「御意の通り、悪逆人にて御座候。御前(徳姫)の御恨尤(うらみもっと)もなり」と認めてしまったという。

さらに家康も信長の意向を知って腹を立て、信康を自害させる決意をし、信長にその伺いを立てた。一応、信長にとって娘婿であるからだろう。信長は「いかようにも存分にせよ」と返答したので、処罰したという。

『三河物語』と『松平記』の信康殺害に至る経緯はかなりニュンアンスに違いがあるものの、信康や築山殿の日頃の行動、家臣の言動が自滅につながったように書かれている。とくに前者は酒井忠次の失態、後者は築山殿の嫉妬が事件の原因として重きをなしている。

 

信康と築山殿の最期

ともあれ、天正7年(1579)8月3日、家康は浜松城から岡崎城へ入り、4日に信康の身柄を大浜へ移し、さらに信康は堀江城を経て大久保忠世が守る二俣城に幽閉された。

8月8日に家康は、信長の家臣・堀秀政に宛て、「信康は不覚悟につき、8月4日に岡崎から追い出した」と書き送り、信長に信康の追放処分を伝えている。

そして9月15日、天方通綱と服部半蔵正成を遣わし、二俣城にいる我が子に切腹を申し渡し、信康は自害して果てた。

ただ、その最期の様子については、一次史料だけでなく、これまで用いてきた『三河物語』や『松平記』など、比較的良質な編纂資料にも記されていない。そこで脚色が多いかもしれないが、『改正三河後風土記』から信康の様子を紹介しておこう。

通綱と半蔵が二俣城を訪れると、信康は両人に向かい「いまさら何も申すべきことはないが、私は武田勝頼に内通して謀反など企んでいない。この事だけは、父上によくよく伝えてほしい」と涙にむせんだ。

そこで通綱と半蔵は「それがしの一身にかえても申し上げます」と約束すると、信康は嬉しそうに笑い、「今はこの世に思い残すことはない」と述べ、潔く腹を割き、「半蔵、介錯を頼む」と告げたという。

ちなみに服部半蔵というと忍者を思い浮かべるが、彼はれっきとした徳川譜代の家臣で、三河の生まれ。家康と同い年だ。確かに半蔵の父・保長は伊賀の忍だったが、本国を離れ足利将軍家に出仕した後、家康の祖父・松平清康の家来となり、広忠、家康の3代に仕えた。

半蔵は、忍術ではなく槍の達人であり、掛川城攻め、姉川の戦い、三方原の戦いなどで軍功をあげ、家康から槍を賜る栄誉を与えられ、「鬼の半蔵」と讃えられていた。

しかし、鬼と呼ばれた半蔵も、土壇場で信康の首に刃を当てることができず、ただただ涙を流すばかりだった。そこで仕方なく、通綱が半蔵に代わって介錯をおこなった。ちなみに信康の首は信長のもとに送られたという。

これを後に知った家康は、「あの鬼と呼ばれている半蔵も、信康の首は打てなかったか」と語ったという。が、これを耳にした通綱は大いに恥じ、徳川家から逐電して高野山に籠もり、後に家康の次男・結城秀康に仕えたといわれる。

一方、半蔵は慶長元年(1597)に55歳の生涯を閉じ、麴町の安養院(のち西念寺と改称)に葬むられたが、この寺は半蔵が信康のために創建した寺だった。

さて、築山殿である。彼女は信康が自刃する前月の8月29日に家康の命令によって殺害されていた。浜松近くの遠江国富塚において野中重政、岡本平右衛門、石川太郎右衛門らによって刺殺され、首をもがれたという。38歳だった。遺体は浜松の西来院に葬られた。

築山殿の最期を聞かされた家康は、「女のことではないか。尼などにしてどこかへ落とすなど、もっと違うやり方があったろう。なのに首を落とすとは」と眉をひそめたという。野中は大いに恐れ、故郷の遠州堀口村に蟄居してしまったそうだ。

なお、『松平記』には、築山殿を殺した岡本や石川は、彼女の怨霊が祟り、その子孫は絶えてしまったと記している。

 

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