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原発事故によって避難を余儀なくされた人たちの「今」 〈3〉

2016年03月10日 公開
2023年01月12日 更新

藻谷浩介(日本総合研究所主席研究員)

「藻谷浩介と行く飯舘・南相馬」講演ツアー同行取材ルポ

〈2〉から続く》

 

[飯舘村]
帰村を目指し奮闘する村長

 福島大学をあとにした一行は、飯舘村役場飯野出張所へ向かった。飯舘村も浪江町と同じく全域が避難指示区域に指定されており、村役場の主要な機能を福島市飯野町にある飯野出張所に移している。建物は、2008年に福島市に編入された旧飯野町の町役場を使っている。福島市役所飯野支所も同じ建物内にある。

飯舘村役場飯野出張所の玄関

 

「飯舘村は阿武隈山地の中の山間盆地にある村で、とくに中心地があるわけではなく、いくつかの集落が点在しています。飯舘や飯野のように『飯』がつく地名の場所は、もともと食料が豊かでないところが多い。そこを先人たちが懸命に開墾したのです。

 私は、大震災前に、東北地方の市町村の転入者数と転出者数を見ていて驚きました。こんな山の中なのに、飯舘村の転入者数が増えていたのです。どうしてなのか、その理由を探りに現地に行きたいと思っているうちに大震災が起こって、全村避難になってしまいました。

 誰もいなくなった飯舘村に行ってみると、あちらこちらに飯舘牛などの地元の物産の看板があり、直売所の跡もたくさんありました。これだけブランド化に力を入れていたから転入者数が増えたのだと、納得できました。菅野典雄村長の取り組みの成果です。

 そのときに同行していた方が、地元の振興に力を入れていた痕跡が残っているのに誰もいない風景を見て、思わず涙しました。それが、このツアーを開催することになったきっかけです」(藻谷氏)

 バスは、かつて松川と川俣を結んでいた国鉄川俣線と並行するように道を進む。川俣は、明治時代以降、養蚕と絹織物産業で栄えた町だ。今も桑畑が見られる。その織物を出荷するために敷設されたのが川俣線である。しかし、戦後は赤字路線となり、1972年に廃線となった。線路は撤去されて残っていない。飯野町公民館の脇に置かれた機関車が、わずかにかつての名残を留めている。

 飯舘村役場飯野出張所では、村長の菅野氏がツアー参加者に熱弁を振るった。菅野氏は現在5期目を務めている。

ツアー参加者に話をする飯舘村の菅野典雄村長

 

「私どもの村は人口約6,000人の純農村です。『スローライフ』という10年計画を打ち出したのですが、なかなか理解が進まないでいたところ、ある職員から『までいライフ』と言い換えてはどうかという提案がありまして、それをスローガンに村作りをしてきました。その7年目に原発事故があって、全村避難ということになってしまったのです」(菅野氏)

 

著者紹介

藻谷浩介(もたに・こうすけ)

〔株〕日本総合研究所主席研究員

1964年、山口県生まれ。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)、米国コロンビア大学留学などを経て、現職。2000年頃より地域振興について研究・調査・講演を行なう。10年に刊行した『デフレの正体』(角川新書)がベストセラーとなる。13年に刊行した『里山資本主義』(NHK広島取材班との共著/角川新書)で新書大賞2014を受賞。14年、対話集『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)を刊行。

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