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偶然の出会いが、レースの道を阻んだ壁を「よけて進む」きっかけに

2018年11月11日 公開

鈴木亜久里(元レーシングドライバー)

スポンサーがいなくなり、知り合いの店でバイト。そこで出会ったモノとは?


写真提供:GTアソシエイション

 

 1990年のF1日本グランプリで、日本人として初めて表彰台に立った鈴木氏。2006~08年には、「スーパーアグリF1チーム」のオーナーとしてF1に参戦し、2度の入賞を果たした。現在もARTA Projectプロデューサー・総監督としてSUPER GTで戦う鈴木氏の、人生の転機とは?

 

 12歳でゴーカートのレースに出て、高校2年生のときにプロ契約。そして、18歳でF3のレースに出場しました。初めは父に買ってもらったレーシングカーに乗っていましたが、スポンサーがつくと、そのチームのクルマに乗りました。

 ところが、22歳のとき、スポンサーがいなくなり、僕を乗せてくれるチームがなくなった。レースの道が断たれたのです。

 大学もレースが忙しくて辞めていたので、橋本さんという知り合いが経営していた、フロンティアという会社でバイトをするようになりました。エンジンオイルの添加剤を扱う会社で、仕事はカーショップなどへの営業です。

 しばらくすると、橋本さんが「気晴らしにグアム島に行こう」と言い出して、職場旅行に行きました。

 グアム島は、米国の文化圏です。米国のカーショップには行ったことがなかったので、どんなものかと覗いてみると、ATミッションオイルの添加剤が並んでいた。まだ日本ではAT車がそれほど普及していなかったので、見たことがなかったものです。

 僕は、父が経営する中古車のオークション場でクルマを並べるバイトもしていたのですが、中にはミッションが噛まずに滑るAT車がありました。当時のATミッションは、トラブルが多かったのです。そこで、1リットル入りのものを5~6本買って帰り、そうしたクルマに使ってみました。

 すると非常に効果があるので、ラベルに書いてある製造会社に、「日本の総代理店にしてほしい」という手紙を送りました。

 返ってきた答えは、「まずは200リットル入りのドラム缶で20本買え」というもの。そこで、父のオークション場で安く買って持っていたフェラーリとジャガー、日産ブルーバードを売って、資金を用立てました。添加剤をドラム缶から小さなボトルに移し替えて箱詰めしてくれる工場も自分で見つけました。

 そうして、フロンティアの営業先に持って行くと、これが一瞬で売り切れたのです。

 お金が入ったので、東京の白金にオフィスを構え、家も埼玉県所沢の実家から白金に引っ越しました。すごく楽しかったですね(笑)。

 でも、僕がしたいのは、やっぱりレースです。ですから、添加剤を売って作った資金で、自分のレーシングチームを作りました。

 そこから、日産のテストドライバーに選ばれ、F2、そしてF1参戦へと、一気に事が運びました。

 ですから、僕の場合、進む道に壁が立ちはだかったとき、それを乗り越えるのではなくて、よけて、回り道をして進んだということですね。それも、橋本さんがグアム島に行こうと言ったから、偶然できたことです。

 思い返せば、人生の様々な局面で、人との偶然の出会いに助けられてきました。よく「若い頃に戻りたい」という人がいますが、僕は絶対に嫌ですね。偶然の出会いがなければ、どうなっていたかわかりませんから

《『THE21』2018年11月号より》

著者紹介

鈴木亜久里(すずき・あぐり)

ARTA Projectプロデューサー・総監督/元レーシングドライバー

1960年、東京都出身。89年から本格的にF1に参戦。90年に日本グランプリで3位に入り、日本人として初の表彰台に立った。97年、〔株〕オートバックスセブンとともにモータースポーツプロジェクト「ARTA Project」を発足させる。98年、「ル・マン24時間耐久」で3位入賞。2003年、チームオーナーとして米国インディカーレースに参戦。06年、スーパーアグリのオーナーとしてF1に参戦。

写真提供:GTアソシエイション

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