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日本の社員は「世界最低クラス」...松下幸之助が大切にした熱意が消えた理由

2022年09月16日 公開
2023年01月18日 更新

川上恒雄(PHP理念経営研究センター首席研究員)

松下幸之助 川上恒雄 熱意イラスト:松尾達

人生100年時代を生きるビジネスパーソンは、ロールモデルのない働き方や生き方を求められ、様々な悩みや不安を抱えている。

本連載では、激動の時代を生き抜くヒントとして、松下幸之助の言葉から、その思考に迫る。グローバル企業パナソニックを一代で築き上げた敏腕経営者の生き方、考え方とは?

【松下幸之助(まつした・こうのすけ)】
1894年生まれ。9歳で商売の世界に入り、苦労を重ね、パナソニック(旧松下電器産業)グループを創業する。1946年、PHP研究所を創設。89年、94歳で没。

※本稿は、『THE21』2022年2月号に掲載された「松下幸之助の順境よし、逆境さらによし~何としても二階に上がりたい。この熱意がハシゴを思いつかす。」を一部編集したものです。

 

中国進出を支えた“大バカ者”たち

1990年代にイトーヨーカ堂の中国進出に貢献し、その後デニーズジャパン社長などを務めた塙昭彦さんの講演を聞いたことがある。

エネルギッシュな話し方で、妙に熱気を放つ人だった。その熱量がすごすぎるので最初、ちょっと引き気味に聞いていたのだが、中国進出の話題になるとがぜん面白い。

塙さんによると、1996年、イトーヨーカ堂の専務営業本部長から「中国室長」なるポストに異動を命じられる。部下の数は25000人からゼロに。社内では左遷と噂されたという。

日本を代表するスーパーで営業本部長を務めた塙さんなら、辞めても他社で活躍することはできただろう。しかし、本気で中国に進出する決意を固める。

何でも、廃部寸前だった女子バレーボール部の部長兼総監督を突然命じられたとき、まるで畑違いなのに立て直すことができたという。中国進出も何とかなるだろう、と判断されたようだ。でも、一人でどうやって?

松下幸之助は著書『道をひらく』の中で、「何としても2階に上がりたい。どうしても2階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかす。階段をつくりあげる」と述べた。

知識や才能よりも、強い熱意さえあれば、できないと思えるようなことでも、創意工夫と行動力で成し遂げてしまうというのだ。

塙さんは、見るからにそんな熱意の塊だ。一人だからと諦めない。一人でできないのであれば、仲間をつくればよいと考える。

以前に所属していた営業本部の幹部500人の朝礼に乗り込んで、「15分だけ時間をくれ」と頼み込み、部下を"公募"する。ただし"採用条件"はつけた。

「利口な人はいらない。得てして行動しないから。バカもいらない。足手まといになるから。求めているのは大バカ者。愚直で、一生懸命になって突っ走ることのできる人」

すると、塙さん自身が驚いたことに、50人を超える応募が。選抜した9人の"大バカ者"と共に中国へと渡った。

現地で最初に取り掛かったのは消費の実態調査。そのやり方が泥臭い。庶民の家をひたすら一軒ずつ回る。そのうち、中国人は日本人とは違って、自宅を見せることにオープンであることに気づく。あれこれ言わずにやってみれば、意外と効率的な調査であった。

さらに敢行したのが、住宅街のゴミ調査。商品のパッケージを見れば、どこで何を買ったのか、情報がつかめる。朝のゴミ収集車が来る前に急いでゴミを調べるのが日課となった。

"大バカ者"たちは、みずからの身体で消費の実態も覚えた。食事はいつも、現地の人しか入らない店。

ゴミ調査をやっているぐらいだから、衛生面なんか気にしない。お腹をこわしながらも、"庶民の味"を理解した。スーパーを開くなら、現地の人たちの食料品の嗜好を知ることは必須だ。

そうした中、塙さんが交通事故で重体となり、いったん帰国せざるを得ない事態に。しかし、中国に残った不屈の"大バカ者"たちは、幾多の困難に直面しながらも、塙さんの期待を上回る成果を挙げ、1997年の中国1号店開店へ向け、準備を進めていったという。

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