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急がれる「安保関連法案」の成立~憲法学者の変節と無責任を問う

2015年08月13日 公開
2016年11月11日 更新

百地章(日本大学教授)

 

日本国憲法には禁止規定なし

 このように、集団的自衛権は国連憲章によってすべての主権国家に認められた「固有の権利」であるが、憲法で集団的自衛権の行使を「禁止」したり「制約」することは可能である。また、国連加盟に当たって、集団的自衛権の行使について何らかの「留保」をなすこともできる。

 しかしながら、日本国憲法の憲法9条1、2項をみても、集団的自衛権の行使を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定は見当たらない。つまり、集団的自衛権の行使を「憲法違反」とする明示的規定は存在しない。また、わが国が国連加盟に当たって集団的自衛権の行使を「留保」したなどという事実もない。それゆえ、わが国が他の加盟国と同様、国連憲章に従って集団的自衛権を「行使」しうることは当然のことであって、憲法違反ではない。

 ちなみに、京都大学の大石眞教授も、筆者と同様の見解を表明している。教授は「私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず、集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない」として集団的自衛権の行使を容認している(「日本国憲法と集団的自衛権」『ジュリスト』2007年10月15日号)。

 とすれば、「わが国は集団的自衛権を保有するが、行使することはできない」などという奇妙な昭和47(1972)年の政府見解は、国際法および憲法からの論理的な帰結ではなく、あくまで当時の内閣法制局が考え出した制約にすぎない。これについて西修教授は、当時の政治状況のなかから生み出された妥協の産物にすぎない、と指摘している(「集団的自衛権は違憲といえるか」『産経新聞』平成27年6月12日付)。それゆえ、政府がこのような不自然な解釈にいつまでも拘束される理由は存在しない。

 この点、最高裁も、昭和34(1959)年12月の砂川事件判決で次のように述べている。「憲法9条は、わが国が主権国家としてもつ固有の自衛権を否定していないこと」そして「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な措置をとりうることは、当然である」と。判決を見れば明らかなように、この「固有の自衛権」のなかには個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権も含まれている。

 つまり、憲法81条により、憲法解釈について最終的な判断権を有する最高裁が集団的自衛権を射程に入れた判決のなかでこのように述べているのであるから、憲法違反の問題はクリアできていると考えるべきである。

 それゆえ、わが国が集団的自衛権を行使できることは、国際法および憲法に照らして明らかであり、最高裁もこれを認めているのだから、「集団的自衛権の行使」を認めた政府の新見解は、何ら問題ない。

 とはいうものの、憲法9条2項は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めており、その限りで集団的自衛権の行使が「制限」されることはありえよう。そのため、政府の新見解も、集団的自衛権の行使を「限定的に容認」することになった。したがって、政府の新見解は「憲法9条の枠内の変更」であって、まったく問題はないし、憲法に違反しないと考えられる。

 

説得力を欠く憲法学者たちの違憲論

 以上述べてきたように、憲法および国際法の常識に従えば、わが国が従来の政府見解を変更して集団的自衛権の限定的行使を認めても、憲法違反ということにはならない。

 ところが、テレビ朝日の『報道ステーション』が行なったアンケート調査によれば、安保法制に関する憲法学者の見解は、151名の回答者中、憲法違反が132名、合憲はわずか4名であった(6月15日放映)。また、『東京新聞』の調査でも回答者204人中、法案を違憲とする者が184人、合憲は7人(7月9、11日付)、『朝日新聞』の調査では122名の回答者中、違憲とする者104人、合憲とする者2名であった(7月11日付)。

 野党や護憲派マスメディアは早速これに飛び付き、専門の憲法学者たちはほとんど憲法違反としているではないか、と政府を批判しだした。

 しかし、その違憲理由たるや「従来の政府見解を超えるもので許されない」「法的安定性を欠く」「立憲主義に反する」といったきわめて曖昧なものであって、どう見ても説得力に欠けている。そこで、6月4日の衆院憲法審査会で違憲論を述べた3人の憲法学者の意見を検討することにしよう。

 まず、早稲田大学大学院法務研究科の長谷部恭男教授によれば、(1)集団的自衛権の限定的行使を認めた政府の新見解は、集団的自衛権の行使は許されないとしてきた従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない、(2)このような解釈の変更は、法的安定性を揺るがす、(3)新見解は外国軍隊の武力行使との一体化につながるのではないか、ということが憲法違反の理由として挙げられている。

 しかしながら、新見解を違憲とするためには、たんに「従来の政府見解の枠を超える」だけでは足りず、それが「憲法の枠を超える」ことの説明が必要である。しかし、その説明はどこにも見当たらない。また「法的安定性の確保」はもちろん大切なことだが、やむをえない場合もあり、それだけでは憲法違反の理由にはならない。

 また、政府見解がこれまで「武力行使との一体化」を禁止してきたこととの整合性であるが、「武力行使との一体化」論は、もともと自衛権の発動とは別の話である。つまり、「武力行使との一体化」論は、「他国軍への後方支援活動」の際の判断基準である。それに対して、集団的自衛権の発動は、「武力行使そのもの」に繋がるものであるから、これは「集団的自衛権の行使」を違憲とする理由にはならない。

 ちなみに、長谷部教授は自著のなかで、「国家とは、つきつめれば我々の頭の中にしかない約束事であるから、国家の存在を認めないこともできる」といい、「国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではない」などといっている(『憲法』)。個別的自衛権さえ疑っており、このような人物に集団的自衛権について問うこと自体無意味であろう。

 また、長谷部氏は、小林節・慶應義塾大学名誉教授との対談のなかで尖閣諸島問題に触れ、「あんな小島のために米軍が動くと本気で思っているんですかね」と放言するような御仁でもある(『週刊朝日』平成27年6月26日号)。

 

小林節教授の度重なる変節

 小林節教授は、かつて『憲法守って国滅ぶ』(平成4年、ベストセラーズ)のなかで、次のように述べていた。

 「わが国〔が〕自衛戦争と自衛軍の保持までも自ら禁止したのだという意味に9条を読まなければならない理由はない。……それは、しばしば皮肉を込めて呼ばれている『理想主義』などではなく、もはや、愚かな『空想主義』または卑怯な『敗北主義』と呼ばれるべきものであろう」

 「冷静に世界史の現実を見詰める限り、世界平和も各国の安全もすべて諸国の軍事的バランスの上に成り立っていることは明らかである。したがって、わが国が今後もたかが道具にすぎない日本国憲法の中に読み取れる『空想主義』を盾にして無責任を決め込んでいく限り、早晩、わが国は国際社会の仲間外れにされてしまうに違いない」と。

 9条の下で、政府見解のいう「自衛力」どころか、「自衛軍」まで保持可能とし、憲法を「たかが道具にすぎない」と述べていた氏は、現在、集団的自衛権の限定的行使でさえ憲法違反とする急先鋒であり、憲法は「権力者をしばるもの」であることのみ強調している。

 たしかに、この本が出てから約20年がたっており、それをいまさら持ち出されても、というかもしれない。であれば、次に述べる「集団的自衛権」についての「変節」については、どのように釈明するのであろうか。

 小林氏は2008年には集団的自衛権の行使を「違憲」、2013年には「合憲」、そして2014年になると再び「違憲」としている。

 (1)「集団的自衛は海外派兵を当然の前提にしている。この点で、集団的自衛権の行使は上述の憲法上の禁止に触れてしまう」(「自衛隊の海外派兵に疑義あり」月刊『TIMES』2008年1月号)

 (2)――「集団的自衛権の考え方については、どうですか」。小林節氏「自衛権を持つ独立主権国家が『個別的自衛権』と『集団的自衛権』の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です。……だから、改めて『日本は集団的自衛権を持っている』と解釈を変更するべきでしょう」

 ――「憲法を改正しなくても、集団的自衛権は現段階でも解釈次第で行使することができるというわけですね」。小林節氏「できます」(「『憲法改正』でどう変わる? 日本と日本人【第2回】」『Diamond Online』2013年7月26日)

 (3)「現行憲法の条文をそのままにして(つまり、憲法改正を行わずに)、解釈の変更として集団的自衛権の行使を解禁することは、私は無理だと思う」(「“解釈改憲”で乗り切れるのか」月刊『TIMES』2014年1月号)

 氏は、日本記者クラブでの記者会見でも「安倍独裁」を連発し、「安倍内閣は憲法を無視した政治を行う以上、これは独裁の始まりだ」と力説している。たとえ気に食わないからといって、いやしくも憲法学者と称する人物が、議院内閣制のもと、国会によって指名され天皇に任命された首相を一方的に「独裁」呼ばわりするのはいかがなものであろうか。

 最後に、笹田栄司・早稲田大学法科大学院教授だが、氏も長谷部氏と同様、集団的自衛権の行使を認めた政府の新見解は、「従来の定義を踏み越えている」ことを理由に、憲法違反としている。しかし、それだけでは違憲の理由とはなりえない。

 

国家論なき戦後の憲法学者たち

 自衛隊違憲論者に共通しているのは、国家観ないし国家論の不在であろう。

 筆者は、かつて『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)のなかで、次のようなことを述べたことがある。

 政府見解や砂川事件最高裁判決は憲法典以前に「国家」というものを考え、それを前提に憲法解釈を行なおうとする現実的な姿勢がうかがわれる。つまり国家には、当然、固有の権利としての自衛権があるから、どこの国であれ、自国の独立と安全を守るために、自衛権の発動としての武力行使ができないはずはない。したがって、仮に憲法典が自衛権の発動を禁止しているように見えたとしても、不文の憲法ないし条理に基づき、自衛権の発動が可能となるような解釈を展開せざるをえない。なぜなら、「国家は死滅しても憲法典を守るべし」などと、不文の憲法が命じているはずがないからである。それに前文や9条が夢想するような国際社会など、当分実現するはずがない。このような判断が暗黙のうちに働いているように思われる。

 これに対して、少なくとも自衛隊違憲論者たちは憲法典至上主義に立ち、あくまで条文の厳格な文理解釈に固執する。つまり「国家不在」の憲法論である。それとともに、よくいえば理想主義、悪くいえば現実無視の観念論を振りかざす。したがって、現実的妥当性を重視するなどといった大人の常識は通用しない。

 同じ事が、集団的自衛権違憲論者たちにもいえるかどうかはわからない。しかし集団的自衛権違憲論者のなかには、水島朝穂・早稲田大学法学学術院教授などのように自衛隊違憲論者も少なくない。

 先に紹介した『朝日新聞』の調査では、回答者122名中、「自衛隊を憲法違反と考える」憲法学者が50名、「憲法違反の可能性がある」とする者が27名もいた(『朝日新聞DIGITAL』2015年7月11日)。なんと回答者の3分の2近くが自衛隊を違憲ないし違憲の疑いありと考えているわけである。これが憲法学界の現状である。

 このことを考えれば、確たる国家観をもたなかったり、国家意識の希薄な憲法学者が多数いたとしても不思議ではなかろう。

 国際法に基づき、集団的自衛権の限定的行使に踏み切るのか、それとも国家意識なき無責任な憲法学者たちの言辞に翻弄され、国家的危機に目を閉ざしつづけるのか、いまこそ国民各自の見識が問われている。

<著者紹介>

百地章(ももち・あきら)

1946年、静岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科修士課程修了(専攻は憲法学)。法学博士。愛媛大学法文学部教授を経て、現在、日本大学法学部教授、国士舘大学大学院客員教授。著書に、『「人権擁護法」と言論の危機』(明成社)、『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)など多数。

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