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石平 聖徳太子の思想戦略

2018年02月07日 公開

石平(評論家)

「関ケ原合戦」は戦争とは呼べない

  ――本書『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』には、中華思想の背景には、儒教特有の「天命思想」や「徳治主義」があると指摘されています。

  天命思想とは、日本語でいえば皇帝への箔付けです。皇帝は人間社会の支配権を「天」から任されており、民衆は誰もが「天」の子である皇帝に服従しなくてはならない、という理屈になっている。

 この天命思想とセットとなるのが、徳治主義です。「天」はどういう基準で皇帝を選ぶのか。儒教においては「徳」とされます。天下万民のなかで、最も「徳」がある者が天下の支配を委ねられるとされるのです。

 ――為政者に「徳」が求められるのは当然で、西郷隆盛のいう「敬天愛人」と本質的には近い気もしますが。

  まったく異なります。「天命思想」にしても「徳治主義」にしても、皇帝が自身の政治支配を担保するための欺瞞にほかなりません。実際の中国史を見れば、そのことがよくわかります。漢の高祖である劉邦からして、典型的なならず者でしょう(笑)。そもそも皇帝になる条件が「徳のある人格者」であったら、古代から中国であんなに戦乱ばかりが続くわけがない。

 たとえば、私が天下分け目の戦いが行なわれたという関ケ原(岐阜県関ケ原町)に行って驚いたのは、そのあまりに狭いこと。しかも戦いは1日で決着した。中国の基準ではこれは戦争とは呼びません(笑)。  

 ――関ケ原に集まった武将の多くが戦闘には参加していません。これを悪くいえば、自己保身。よくいえば無駄な血は流したくなかったといえる。西郷さんにしても、勝海舟との「話し合い」で江戸無血開城を実現しています。江戸が戦火になれば、多くの民衆が苦難に陥るという考えがあった。まさに「敬天愛人」の「愛人」の実践です。

  それこそ日本の「徳治主義」、すなわち「武士道」の姿でしょう。中国にはそうした発想はありませんから、ひとたび戦乱期、革命期に入ると、何百万人の民衆の血が流れる。どちらかの勢力が倒れるまで、戦い続ける。しかし、そのぶん中国の歴史は波乱続きで面白いといえます。日本の歴史は平和な期間が長すぎて、ちょっと退屈です(笑)。

 

 「儒教」=「論語」という誤解

 ――不思議なのは、儒教は中華思想を支えるのに利用されたという一方で、孔子の教えをまとめた『論語』に代表されるように、日本では道徳面を説いた「良い教え」という印象が強いことです。中国の権力者が『論語』に書いてあることを守っていれば、あんなに戦乱が続くはずもないと思うのですが。

 石 そこが、日本人が陥りがちな典型的な誤解なのかもしれません。たしかに孔子は「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という言葉に代表されるように、「人としてのあるべき姿」を説きました。そのような孔子が説く教えのうち、弟子たちが覚えていたものをまとめたのが『論語』なわけです。もとより体系化されたものではなく、論理性に乏しい。たとえば、「仁」が大事といっても、肝心の「仁」の定義が『論語』には書かれていない。

 間違いなくいえるのは、『論語』とのちの儒教とはあまり関係がないことです。そもそも、儒教を「国家的宗教」にまつり上げたのは、漢の武帝です。彼は、中国史において最も戦争を行なった人物として知られています。このときから、「天命思想」や「徳治主義」の考え方が用いられ、政権の後ろ盾として儒教が利用され始めた。しかしこのような国家的イデオロギーとしての儒教は、孔子の『論語』の世界からすでに遠く離れています。

 その過程で、「孔子の教え」は中国から忘れ去られていきました。私から見れば、いまの日本人のほうがよほど『論語』の世界に生きています。それこそ『論語』を読んだことがない大阪のおばちゃんですら、自然とその教えを守っている(笑)。

 ――日本で『論語』が長く親しまれてきたのも、自分たちの感性に フィットする読み方ができるような、普遍的な人生訓だったからかもしれません。いずれにせよ、『論語』が儒教とは関係ないとすれば、日本人は儒教、ひいては中華思想とどのように付き合ってきたのでしょうか。

  日本には古代に儒教と仏教がほぼ同じ時期に入ってきたのですが、当時の人びとは儒教に対してきわめて冷淡な態度で接していました。

 たしかに聖徳太子が制定した十七条憲法には、儒教の用語や儒教経典からの引用が見られます。それから約1世紀後の大宝律令や養老律令においても、朝廷の高級官僚の養成機関である大学寮が整備された際には、儒教経典が必修科目に定められています。しかし、古代において儒教の受容はある意味で「この程度」であり、社会全体に広がる思想ではありませんでした。

 これが仏教となると、大きく事情が異なります。聖徳太子は摂政になると、国家プロジェクトとして仏教の振興に力を注ぎ、難波に四天王寺を、大和朝廷の中心地である飛鳥には法隆寺を建立し、仏教普及の拠点としました。あの時代、日本は驚くほどの短期間で、アジアでも有数の仏教国家へと変貌を遂げました。

 ――儒教と仏教の受容の違いは、どんな理由から生まれたのでしょうか。

 石 聖徳太子を中心とする大和朝廷は、大きな政治的課題として「中国からいかに日本の自立を守るか」を掲げていました。その考えを汲めば、儒教ではなく仏教を選んだ理由はわかります。

 もしも中国を頂点、中心とする儒教を全面的に取り入れれば、それは日本が中華秩序の一員となり、中華帝国のいわば子分となることを意味します。実際、朝鮮は中国一の子分に自ら望んでなりました。しかし、「世界宗教」である仏教の世界では、日本も中国も対等です。だからこそ、大和朝廷は仏教を選んだのです。これはきわめて高度な思想戦略というべきものです。

 ――それだけの国際感覚を当時の日本人は抱いていたのですね。

 石 そうです。そして聖徳太子らの決断により、以降も日本は中華秩序にのみ込まれることなく、独立を保ち続けることに成功しました。これは、東アジア諸国のなかではほぼ唯一のことです。日本ははるか昔に「脱中華」をスタートさせていたことになります。

(本記事は『Voice』2018年3月号、石平氏の「儒教ではなく仏教を選んだ聖徳太子の思想戦略」を一部、抜粋したものです。全文は2月10日発売の3月号をご覧ください)

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著者紹介

石平(せき・へい)

評論家

1962年、中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)で第23回山本七平賞を受賞。近著に、『なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか』(KADOKAWA)などがある。

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