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満洲事変は「誰が、何人で」起こしたのか

2020年01月28日 公開
2021年07月20日 更新

宮田昌明(文学博士)

 

関東軍の独走

石原は永田鉄山軍事課長に、外交の無力を批判し、関東軍が中村事件の解決に当たること、特に一個小隊を現地に派遣の上、民国側との共同調査に当たるか、拒否された場合は実力調査を決行すること、解決条件として、謝罪、賠償および洮南地方の開放を要求することを提案するが、永田は否定的であった。

陸軍上層部は、民国側との外交交渉を目指すという政府方針を支持した。

8月4日、南陸相は、軍司令官および師団長会議において、緊縮財政の中で軍制改革を進めるため、経費を陸軍内で支出しなければならず、そのため、既存部隊の改廃を行わざるを得ないことを述べると同時に、満蒙の事態が重大化しつつあることに触れた。

会議には、本庄繁関東軍司令官に板垣征四郎参謀長が、林銑十郎朝鮮軍司令官に神田正種参謀が随行して参加し、軍内に満洲の危機的状況について訴えた。

花谷正の戦後の回想によれば、首謀者で計画を練る一方で、中央に軍事衝突発生の場合の対応検討を要請し、各方面に謀略について示唆していたという。

とはいえ、参謀本部ロシア班長で、後に十月事件を引き起こす橋本欣五郎は、当時の軍上層部の態度について、「公式の情勢判断に於て満洲を処理せざるべからざる結論に達したるも、軍高級者は例の如く机上の文案と心得、あたかも何等処置する処なき事例の如し(註1)」と記している。

石原が独断行動を決意したのは、こうした陸軍中央に対する失望からであろう。つまり、軍部の主導による国家の牽引ではなく、関東軍の行動による軍部、そして政府の牽引である。

このように満洲事変は、計画的というより、軍の総意としての行動を断念する緊急措置として引き起こされた。また、石原にとっておそらく、武力行使を決意した以上、新たな日本人殺傷事件の発生を待つ方がむしろ不合理であった。

 

首謀者はわずか4、5人──満洲事変の勃発

9月18日、柳条湖事件が引き起こされた。公式発表された経緯は、奉天郊外の満鉄線路上で爆発があり、部隊を現場に派遣したところ、民国軍部隊と衝突したというものである。

線路に被害はあったとされるが、事件後、列車が現場を無事に通過している。満洲事変を決行した首謀者は、わずか4人ないし5人であった。

石原莞爾と板垣征四郎は関東軍参謀、今田新太郎は張学良の顧問、花谷正は奉天特務機関で、石原と板垣以外は所属部署が異なる。この4人が中核で、他に神田正種朝鮮軍参謀が首謀格の協力者となった。それに柳条湖事件の実行部隊となった奉天独立守備第二大隊の一部将校が加わる。

事件前、建川美次参謀本部第二部長が満洲に派遣されている。石原らが軍事行動について中央各方面に示唆していたため、自制を求めるためであった。事件直前の9月15日の石原日記に、「午後9時半より機関にて会議、之に先ち建川来る飛電あり午前3時迄議論の結果中止に一決」 という記述がある。

花谷は事件後、決行を知らされていなかったと片倉衷に弁明する一方で、後の回想では、今田に押されて決行に同意したと記している(註2)  。

重大事だけに、石原は気後れした花谷を除外しようとしたか、石原にも躊躇があったのであろう。一方、永田は事変勃発後、それまでの態度を一変して関東軍の行動を支持する。

永田は機会主義的で、他人を利用する行動が多く、相手次第で発言も変わるため、理解や評価には注意が必要である。

(註1)中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1963年、88頁。

(註2) 角田編『石原莞爾資料──国防論策篇』28頁。花谷正(秦郁彦編)「満洲事変はこうして計画された」『別冊知性』5〈秘められた昭和史〉1956年12月号。片倉衷『回想の満州国』経済往来社、1978年、48-56頁。

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