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飛龍反撃!ミッドウェーで一矢報いた山口多聞

山内昌之(歴史学者/東京大学名誉教授)

2012年05月24日 公開 2024年12月16日 更新

「兵は拙速を尊ぶ」。孫子以来語り継がれている、戦いの極意の1つである。日米の機動部隊が激突したミッドウェー海戦もまさに、この極意が勝敗を分けた。

しかし、頭で理解するだけの南雲司令部は、拙速に踏み切れなかった。なぜなら拙速には犠牲が伴い、指揮官の責任が問われるからだ。その中で1人、責任を負う覚悟で即時攻撃を進言したのが、第二航空戦隊司令官・山口多聞であった。

※本稿は、『歴史街道』2012年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

見抜いていた「戦いの本質」

今からちょうど70年前の昭和17年(1942)6月4日(現地時間)、太平洋戦争の分水嶺ともいうべき戦い、すなわちミッドウェー海戦が行なわれました。日本の海軍がこの「勝てる戦」を落とし、その後、雪崩の如く敗戦へ向かったことは改めて述べるまでもないでしょう。

しかし、決定的な敗北の中にあって、強烈な輝きを放った男がいました。第二航空戦隊司令官・山口多聞です。

この時、日本の機動部隊は司令部の判断ミスで、3隻の空母(赤城、加賀、蒼龍)を一瞬にして失いました。山口は一連の判断ミスに警鐘を鳴らし続け、3空母が大破して窮地に立たされると、迷わず自ら座乗する飛龍一隻で反撃に打って出て、一矢を報いたのです。

司令部の「判断ミス」とは何でしょうか。それは第一航空艦隊司令長官・南雲忠一と参謀長・草鹿龍之介はじめ幕僚たちが、当初、ミッドウェー島近海には米空母はいないと安易に決め付けていたことでした。

真珠湾攻撃以来の成功で、慢心と油断があったのです。ところが、やや遅れて「敵は空母らしきものを伴う」という報告が偵察機よりもたらされます。

その時、南雲機動部隊の空母艦載機はミッドウェー島の第二次攻撃のため、陸用爆弾を装着していました。敵機動部隊発見の報を受けた司令部は、教科書通りに艦船攻撃用の魚雷への兵装転換を下命します。

しかしこれは、「戦いの本質」を捉えていないマニュアル秀才の判断でした。空母同士の戦いでもっとも優先されるべきはスピード、すなわちいかに先制して敵を叩くかです。

空母は爆弾などで飛行甲板を破壊されると、艦載機の離着艦が不可能になり、たちどころに無力化されてしまうからです。まさに、やるかやられるか、時間との勝負なのです。

山口は、この空母戦の本質を見抜いていました。だからこそ、敵空母の存在を確認していながら、あくまで兵装転換に拘り、もたもたと攻撃に打って出ない司令部の指示に歯軋りし、「現装備(陸用爆弾)ノママ攻撃隊直チニ発進セシムルヲ至当ト認ム」と、南雲ら司令部に意見具申したのです。

しかし、空母決戦の本質を知らない南雲司令部はこれを黙殺。結果、南雲機動部隊は、換装作業中に敵の爆撃を受けて、虎の子の空母3隻を失うという、もっとも恐れていた事態を招いてしまいました。

そして山口は、残された空母飛龍一隻で、無傷の3空母を基幹とするアメリカ海軍機動部隊に挑んでいったのです。

真珠湾攻撃の際、南雲機動部隊の旗艦・空母赤城の飛行隊長であった淵田美津雄は、このミッドウェー海戦における司令部の判断ミスを、後に次のように振り返っています。

「ああ、兵は拙速を尊ぶ。巧遅に堕して時機を失うよりは、最善でなくとも、次善の策で間に合わせなければならない」

淵田の言葉は、実に的を射た教訓として胸に響きます。司令部の最大の問題点は「空母には艦船用の兵装で攻撃をする」という「模範解答」に執着したことです。

これは実戦の極めてシビアな局面にいながらも、あたかも兵棋演習を行なっているかのようにのどかな思考であり、現実の敵を顧みていない証でした。その点、瞬時に「次善の策」を導き出した山口が、いかに稀有な存在であったかが窺えるのです。

山口の慧眼 <けいがん> は、ミッドウェー海戦に限りません。昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃においても、「徹底的に真珠湾の敵基地を叩くべき」と、司令部に第二次攻撃の必要性を幾度も訴えています。

これは艦船だけでなく、真珠湾の燃料タンクや修理にあたる海軍工廠などを破壊し、大国・アメリカが太平洋上で当面立ち上がれなくなるようにすべき、との考えでした。

腰の引けた南雲司令部はこれを容れませんでしたが、もしも山口の考えが実行されていれば、ハワイの太平洋艦隊はまず半年は行動不能に陥り、歴史は大きく異なっていたと思うのです。

 

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