障害当事者として、障害のある身体、そして社会とのギャップを考察し続ける作家で弁護士のキム・ウォニョン。自身は骨形成不全症をもって生まれ、骨が折れやすいため、歩くことが難しく、車いすユーザーでもあります。
そのため小学校に通えず、中学校からやっと支援学校に通えるようになり、ソウル大学に進んで弁護士・作家となりました。ウォニョン氏は、母親も自分の出生に関して「損害だ」と思ったことがあったかもしれないといいます。
1980年代の韓国社会を考えれば、それは全くおかしなことではないとウォニョン氏はいいます。障害をもつ子どもを授かったとする、ある架空の夫婦を題材に「障害を受容すること」を考えます。
※本稿は、キム・ウォニョン著、五十嵐真希訳『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(小学館)から一部抜粋・編集したものです。
障害者人権サークルで出会ったふたり
ヒョノは障害者の権利について多くの関心を抱いていた。長い間友情を深めてきた友人も障害者だ。
大学を卒業後は弁護士になり、社会的マイノリティに目を向ける弁護士ソヌと出会って結婚した。二人の結婚写真には車いすに乗った同窓生の姿もある。ソヌの友人には聴覚障害者がいて、彼らは結婚式に手話通訳士を呼ぶという「前代未聞」なことをやってのけた。
ヒョノは大学生のころ障害者人権サークルで積極的に活動し、ソヌは学内のフェミニズムグループで活動した。
彼らはサークル活動や読書によって、社会が長らく形づくってきた美の画一的な基準が(特に)女性を、また、障害のある人をどのように抑圧してきたのか、自分の身体を嫌悪するべくどのようにあおってきたのか、これらについて問題意識をもつようになった。
ソヌは、友人が合コンで「JMをしてみろ(障害者のように自己紹介をしてみろ)」と言われたという話を聞いて、激しい怒りを抑えられなかった。
すぐにSNSにこの話を載せ、このような合コンを変えなければならないと主張した。ヒョノも障害者人権サークルでJMの話を知り、ショックに陥った。サークルのメンバーが集まって、「全ての身体は平等であり、だれも自分の身体を理由に軽蔑の対象となってはならない」という貼り紙を中央図書館に掲示した。
障害者の権益活動に熱心だった夫婦に障害児が産まれたら
二人は、結婚してからも忙しい時間を割いて、障害者のための権益擁護活動に熱心に参加した。どんな身体と精神であっても、みな人間として完全な権利をもち、共同体のすべての構成員から尊重されなければならないと、心から信じた。
自分たちはたとえ障害のない弁護士として活動していても、障害や病気を抱えるほかの人々よりも特別に優れているとはこれっぽっちも思っていなかった。
人間はみな、身体と精神にちがいがあっても、法的、道徳的に平等でなければならず、また、豊かな人生の可能性を平等にもつと確信していた。
結婚して数年後、ソヌは妊娠した。二人は子どもを、責任感と自律の精神があり、他者を自分と同じ人格として尊重する大人になれるよう育てていこうと決心した。
二人は芸術やスポーツにも関心があり、勉強のできる子どもよりもダンサーや陸上選手になったらいいと語り合った。胎児はすくすくと育ち、ソヌは無事に臨月を迎えて出産した。
ところが、しばらくして、子どもに軟骨無形成症※1があることがわかった。二人は大きなショックを受けた。予想だにしない出来事だった。家族に軟骨無形成症がある者は一人もいなかった。
妊娠の経過を再検討してみて、産婦人科の医師がこのことを前もって発見できたにもかかわらず見逃していたことがわかった。医師が出生前診断を行っていたなら、二人は(お互いに話をしたわけではないが)、子を産まないことを選んだかもしれなかった。
少なくとも子の障害が予めわかっていたなら、心の準備をして、養育に必要かつ適切な対処をすることができただろうと考えた。
二人は医師の過失に対して責任を問うべきだと思った。医師がとんでもない過失をしたのであり、病院の賠償を受けられれば、子どもを育てるのが少しは楽になるだろうとも思った。法律家の同僚たちも、その医師がこれからも同じような過失を繰り返さないように、医療過誤に対する責任を問わなければならないと口を揃えた。
子どもを深く愛している、でも出産前に戻れたとしたら...?
しかし、ソヌとヒョノは訴えを起こさなかった。訴えを起こそうと、一度でも思ったことに罪悪感が募った。二人はこれまで人間の身体を杓子定規に当てはめ、その外見に応じて人々を画一的に判断する社会に抵抗し続けてきた。
そのような自分たちがいま軟骨無形成症を抱えて生まれた子どもについて、「損害賠償」を請求しようとしていたのだ。この病気は、深刻な合併症を発症しなければ、寿命に影響を及ぼさないし、日常生活で特異な生理的苦痛を誘発することもそれほど多くはない。
軟骨無形成症のある人とほかの人との大きなちがいは、まさに見た目の特徴にある。二人は悩んだ末に訴訟をあきらめた。
ソヌとヒョノは、障害に関するさまざまな経験と知識をもち、だれよりも賢明な両親だった。時間が経つほどに、子どもへの愛情も大きくなっていった。この子は、何の試練もなく生きてきた自分たちの人生に深い意味をもたらす贈りものではないかと、しばしば考えた。
それにもかかわらず、自分たちがこの子の出産に対して損害賠償請求を真剣に検討したという事実が、たびたび頭をよぎった。
「私たちは自分たちの人生に訪れたどうすることもできない運命、障害児を受けいれなければならないという現実の前で、ただ単に自己欺瞞に陥っていたのではないだろうか? 子どもがいなかった頃にいつでも戻れる方法があり、妊娠中に戻れたとして、医師が胎児の軟骨無形成症を診断できたとしたら、迷わずに中絶したのではないだろうか?」
二人は子どもをとても愛したし、軟骨無形成症を抱えるすべての人が価値のない人生を生き、劣った存在だとはまったく考えていなかった。しかし、出産前に戻れたら、この子を産まないかもしれないという考えを振り払うこともできなかった。
ソヌとヒョノは、障害が「不当な生」ではないと信じていた。しかし、自分たちの人生に障害のある子が実際に誕生すると、矛盾した感情に陥った。
この二人は架空の人物である。しかし彼らは、実際に障害児を産んで育てる両親を象徴し、「不当な生」と思われがちな身体的、精神的、社会的条件をそのまますべて受容しようと奮闘する障害者の自意識そのものだともいえる。