猫の乳腺の腫瘍はほぼ悪性
プが朝からボンビを獣医さんに連れていった。
帰ってきたプは、まずはキャリーが大嫌いなボンビを、玄関で放した。飛びだしたボンビはヤケクソのようにゴハンを食べはじめたけれど、プは玄関に座ったままだった。
ずっとずっと玄関に座ったあと、サンダルを思い出したように脱いでから、ノロノロとパソコンに向かった。
パチパチしながら、「やっぱりダメなの?」とうつむいて、あのときのランのように、目からつるりつるりと水を流した。
どれくらい、プはそうしていたのだろう。目から流れる水を乱暴にゴシゴシと手の甲でぬぐってから、スマホを手に取った。
「もしもし、西岡さん。先ほどは急なメッセージをすみません。西岡さんのソマリちゃん、たしか一匹は乳腺の腫瘍でしたよね」と、ふつうを保てるギリギリという感じで、スマホに話しかけている。
それからは、「はい」「そうですか」しか言わなくなって、スマホを置いたあとは、いったんベッドにバタンと倒れて、またパソコンに向かっても、目から流れる水は、さっきよりも増えている。ダメだ、ダメだって、ずっと言いながら。
目から流れる水は、「涙」というものと知った。
帰ってきたランは、
「泣かないで。涙をふいてから、落ち着いて、分かっていることを説明して」
プがさっきスマホで話していたときのように、ふつうの声を出そうとしている。
「ボンビのしこりはね、乳腺の腫瘍だった」
「良性か悪性かがはっきりするのは、これからの細胞診?」
「ううん、猫の乳腺の腫瘍の場合、その細胞診ってやつをしなくても、ほぼ確実に悪性なんだって」
「どうすれば最も良いと、獣医さんは言っていた?」
「まずは、しこりのあった右側の乳腺の全摘手術。とにかく猫の場合、本当に人より色々なところへの転移が多くて進行も早いから、悪い場所だけ見つける度に手術して取るのは無理で、猫にもとても負担にかける。
取った乳腺を検査に出すのは悪性の再確認のようなものらしい。手術する時に麻酔して、お腹の毛も剃るから、左側の乳腺も診察して、腫瘍があれば数週間後に左も全摘しなければならないって」
「ほかに、どんな説明があった?」
「ボンビの色々な数値から判断すると、今は手術に十分に堪えられるけれど、数値は変わるから。数値が安定しているうちに、できるだけ早いほうが良いって。手術前に数値の検査のための通院をくり返すのも、猫に負担になるって。手術の枠は、いちばん早くて明後日の午前中を空けてもらっている」
すこしだけランが、いつもの穏やかな雰囲気に戻った。
「ボンビにとっても誰にとっても、手術は辛い。でもいきなりのへそ天をしたボンビは、早く気づかせてくれるチャンスをくれたのかもしれない」
でもプは、うつむいたまま。またどうにかふつうの声を出そうとしても出せていない。しばらくうつむいてから、やっと顔を上げて、振りしぼるように言った。
「違う」
「なぜ?」
もう、プはふつうの声を出すのを、あきらめた。
「乳腺の手術は完治でも根治でもないらしい。予後の生活の質を上げるためのものだって。あの病院には獣医さんが三人いるけれど、術後の余命は、早くて半年、長くて1年半。
それ以上に長生きした猫は、三人とも診たことがないって。西岡さんのソマリちゃんは2年以上も生きたらしいけれど、2年以上は獣医さんにも『未知の領域』って言われて、最期は見ているのも辛かったって言っていた」
ランはなにも言わなかった。
いよいよふつうの声を出せなくなったプが、一気に崩れて、ランへも誰へも言っているかではないように、もう涙を止めようともせずに、途切れ途切れに話した。
「太ったけれど、いつも楽しそうに猫じゃらしで遊んでいる、どう見ても元気なボンビが、1年半後にいなくなる? それも通院とか手術とか、辛いことがいっぱいかもしれない。同じ1年半ならば、いっそのこと、気づかなかった方が辛い目を知らずにすんだのかも」
ますますなにも言わなくなったランに、プはプを信じこませるように言った。
「ネットで一件だけ、乳腺の手術後に5年以上もぴんぴんしている猫を見つけた。ボンビも、そうならないかな」
ゴハンを食べない
ボンビはつぎのつぎの日の朝に、また獣医さんへ連れていかれた。還暦祝いのためにランもお休みの日だった。
「乳腺の手術は見た目の手術の痕は大きいけれど、深く切らなくて痕も開かないから、痛みも大きくないらしい。だからよほどのことがない限り、当日にお家に帰る猫が多いって」
「じゃあ、夕方には連れて帰ろう」
夕方には白いものでお腹をぐるぐる巻きにされたボンビが戻ってきた。ボンビはすこし、ボンヤリとした目をしている。
どこかボンビの好きな場所でゆっくりしたいみたいで、トコトコと好きな場所に行こうとするけれど、広くて片づいていない家でボンビが目の届かない場所にいるのが、心配で心配でたまらなそうなランとプは、家のなかをいろいろ仕切って、そのなかでボンビを見守ろうとしている。
でもボンビは狭い場所も、閉じ込められるのも大嫌いだから、ボンヤリとした目でも「イヤだ、イヤだ」って精一杯に鳴いている。ボンビはゴハンも食べなかった。
「手術が終わって、すぐにゴハンを食べられないのは、ふつうなのかな」
「ありうると思う。でもひとりぼっちで病院で夜を過ごすよりは、ボンビにとってもストレスは少ないはずだし、食べたいと思えるようになるのを待とう」
ランが鳴いているボンビの頭を、ヨシヨシとなでた。
「こんな還暦を迎えるとは、思ってもいなかったけれど。ただ家族が揃った還暦で本当によかった。ボンビ、がんばったね。ありがとう」
でもボンビは、つぎの日もほとんどゴハンを食べなかった。そのつぎの日は、まったくゴハンを食べなくなった。ランの顔が暗くなった。
「必要以上の通院は、ボンビに負担をかける。でもゴハンを食べられないくらいに、ボンビには痛みなど、なにかあるのかもしれない」
プはまた、ボンビを獣医さんへ連れていった。
「手術の痕もキレイだった。痛み止めを打ってもらった。このまま様子を見ましょう、って」
この何日かでプがやっと、ホッとしている。夜中。ベッドに上ろうとするボンビをプが
「無理しなくて、いいよ」と、そうっとベッドに乗せた。するとついさっきまで、やっとホッとしていたのに、あれっ? ていう顔にかわった。そして小さな布をボンビの背中にのせた。
「ラン、ちょっとこっちに来て」
呼ばれたランがベッドのそばに来た。
「いつもより少し体温が低いように感じたから、いまタオルケットをかけたの」
しばらくじっとしていたボンビが、背中に布を乗せたまま、ゆらりと立ちあがって、ゆっくりとベッドの先にある出窓のほうへ行こうとしている。カーテンのすき間に頭が入ったとき。
背中に乗っかっていた布が、頼りなくポトンと落ちた。ベッドに布をのこして、ボンビはカーテンの向こうに消えた。カーテンの向こうに、ボンビはもういないような気がした。
「ボ、ボンビ?」
プがカーテンを急いでいるのか、おどろかしたくないのか、わからないようなぎくしゃくした手つきであけた。
出窓でボンビはこちらに背を向けていた。でも、なんなんだろう。目のまえにいるのに、目のまえにいないよう。ランの声がふるえている。
「ボンビに起きていることは...。麻酔を伴う手術をうけた人間でもあることなんだ。おそらく腎臓の急性不全」
プはすがるような目で、ランの言葉を待っている。
「でも最悪の疑いは、肝臓の急性不全。その場合...ボンビは明日を迎えられない」
プの声もふるえた。
「ど、どうすれば.......。救急センター......?」
「いや。ボンビにとって、いま一番たいせつなことは、お家で朝を迎えられること。少しでも苦しくないこと」
この何日か、いや、いままでも、ランが崩れたり乱れたりするのを見たことはない。そのランの顔がゆがんだ。
「俺、嫌だよ。命がなくなってしまうことを論理的に推測できてしまう自分が、ほんとうに嫌だよ。医者になんてならなかったらよかった。嫌だ、嫌だ」
ランの泣く声をはじめて聞いた。ランが泣くと、プもワンワンと泣いている。ランは泣きながら、
「でもボンビは、天使のような猫だよ? 世界から天使がいなくなるなんて、ふつうはあり得ないじゃないか」
ひたすら、そうくり返した。プは泣きすぎて、疲れて、枕に顔をうずめて泣いたまま、眠ってしまった。
シンとした部屋で泣きかたが静かになったランは、もう一度ボンビの背中に小さな布をかけてから、
「テンコ、こっちに来てくれる?」とわたしを呼んだ。そして
「テンコ、あのね」と話しはじめた。
ボンビは出窓で朝を迎えた。はかない空気をさわろうとするかのように、プがボンビを抱きあげて、そうっとキャリーケースに移した。
「ごめんね。また獣医さんに行くよ」
獣医さんから帰ってきたプは、キャリーケースを持っていなかった。だからボンビも、お家には帰ってこなかった。