空海 その気になれば自分は変えられる
ものに定まった形や性分などない。
人とてどうして常に悪ばかりでいられるだろうか。
空海は『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』という著作において、悟りへの段階を10に分けて説明しました。
第1段階では欲求を満たすため獣同然に生きていた人間が、第2段階になると道徳心を持ち、他人のことを思いやるようになります。こうした心の変化を、幼い子どもが自制心を持つようになる姿に喩えています。
子育てを経験した方なら、幼子にものの道理をわからせるのがどれほど大変か、よくご存じでしょう。おもちゃやお菓子を買ってくれと売り場の床にひっくり返って泣かれでもした日には、こっちが泣きたい気分になります。
ですが、駄目なものは駄目と根気よく教えていけば、わがまま放題の子も我慢を覚え、場に合った振舞いを学び、やがては落ち着いた大人になってくれるものです。
仏教では、すべての物事には定まった形がなく、常に変化し続けると考えます。
太陽や大地など、悠久のときを経てなお存在し続けるものでさえ、万や億を年の単位にしてみると、劇的な変化を遂げています。まして、日々移ろい変わる人間が同じ心のままいられるはずがありません。
だからこそ、どんなに悪い人間でも、正しい教えや良き指導者に巡り合いさえすれば生まれ変わったようになれる、と空海は断言しました。
さて、ここまでの話をあなたはどうお読みになったでしょうか。
子どもや若者が対象の教育論だと思われたでしょうか。
実は、そうではありません。大人も同じです。
人の性質は、変えようと思えばいくつになっても変えることができるのです。
もちろん、年長になればなるほど性格や行動はある「傾向」に定着してはいきます。ですが、ときには自分でも意外な行動をとることがありませんか? 人間は、本人が思う以上に柔軟なものです。
今の自分に百パーセント満足しているという人はそれほど多くはないでしょう。みな、性格の欠点や悪習慣を断ち切れない弱い自分を自覚しつつ、「この歳になったらもう直しようもない」 と半ばヤケになってあきらめたりします。
でも、それは思い込みというもの。その気になれば腰が折れる年齢になっても、新しい自分になることができます。
年齢を理由にあきらめたりせず、よりよい自分を作り上げていく。これもまた人生の醍醐味ではないでしょうか。