ひろさちやさんが語る「希望は持たない!」の意味
2011年02月03日 公開 2024年12月16日 更新
頑張れば頑張るほど苦しくなるという方も多いのではないでしょうか。
「あくせく、いらいら」の人生をやめ、「のんびり、ゆったり」とした人生を送るためにはどうしたらよいでしょうか。
過去を反省しない、未来に期待しない、「がんばる」のをやめる……実はどれも仏教思想に基づいているのです。
仏教思想に隠れる意外なヒントの数々を著述家のひろさちやさんが逆説やユーモアを駆使してやさしく解説します。
※本稿は、ひろさちや著『がんばらない、がんばらない』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
未来を悩まず、今日を楽しく熱心に生きればいいのです
そこで最初に、釈迦のことばを紹介します。お釈迦さまの権威でもって、わたしの主張の裏付けにします。
過去を追うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを、
現在においてよく観察し、
揺ぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践すべし。
ただ今日なすべきことを熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん
これはパーリ語聖典の『マッジマ・ニカーヤ』の中の「一夜賢者経」と題される経典に出てくることばです。
わたしたちは、過去の失敗をくよくよと悩んでいます。でも、いくら悩んでも、過去を変えることはできません。悩むだけ無駄なんです。
いや、失敗を反省することによって、二度と再び同じ失敗をしなくなる。だから、反省することは大事なんだ。そう主張される人がおいでになります。それは、学校の算数や数学の試験問題であれば、反省することによって同じ誤りを繰り返さないかもしれませんが(でも、同じ失敗をすることも多いですね)、人生には同じ問題なんてありませんよ。
だから、いくら反省したって同じ過ちを繰り返します。それが証拠に、酔っ払いを見てください。わたしなんかニ日酔いをするほど飲まずにおこうと決心しながら、相変わらず二日酔いをしてうんうん唸っています。ともかく、過ぎ去った過去は反省しないでいいのです。お釈迦さまはそう言っておられます。
いや、それよりも、過去の成功のほうが困りものです。わたしたちは物事に成功すると、その成功体験が仇となって、それにのめり込んでしまうことが多い。そのいい例がパチンコです。あるいは競馬・競輪などのギャンブルです。なまじ大穴を当てたりすると、その快感が忘れられず、執着してしまうのです。そのように成功体験に執着することも、釈迦の「過去を追うな!」のうちに含まれています。
そして、「未来を願うな!」が、わたしの言う「希望を持つな!」です。
普通は「希望」というものは、美しいものに思われています。しかし、よく考えてみたら、そのほとんどが夢みたいなものです。世間では美しい夢を持てと言いますが、総理大臣になりたい、社長になりたい、大金持ちになりたいというのが、ほんとうに美しい夢でしょうか?
高校の野球部員が甲子園で優勝したいと夢を見るのを、世間の人はほめそやしますが、そんな夢を持てば毎日毎日練習ばかりしなければならず、野球を楽しめません。サラリーマンが社長になりたいと思えば、上司にごまをすらねばならず、人間が卑屈になりませんか?
家庭を犠牲にしてあくせく働かねばならない。そんな生き方をするよりも、毎日の生活を楽しく生きなさい。釈迦はそう教えているのです。それが、「未来を願うな!」であり、「ただ今日なすべきことを熱心にせよ!」なんです。
ともあれ、希望というものは欲望なんです、その本質は。物質的な欲望もさることながら、権力欲や名誉欲。それが希望ですよね。そんな希望は持たないほうがいいのです。
それと同時に、われわれは未来を思い悩みます。大学受験に失敗したらどうしよう、会社をリストラされたらどうしよう、とあれこれ悩みます。まことに悩みの種は尽きません。
もちろん、希望と悩みはちがっています。わたしが二つを並べると、おまえは味噌も糞も一緒にするのか!? と叱られそうです。
しかし、とことん突き詰めて考えるなら、わたしたちはいやなことから逃れたい、苦労なんかしたくないと思って悩むのです。その意味では、逆方向の希望で悩んでいることになります。
だとすると、釈迦が「未来を願うな!」と言ったのは、未来に対して希望を持たないと同時に、先のことをあれこれ悩むなと教えているわけです。わたしはそのように解釈します。
そして、これは釈迦だけではありません。キリスト教のイエスが、《明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》(『マタイによる福音書』6)と言っています。釈迦と同趣旨の発言ですね。
考えてみれば、われわれは過去と未来に対していっさいの権限はありません。
たとえあなたが大金持ちであっても、千金・万金を出して昨日の二十四時間を再使用させてほしいと言っても、それは無理です。同様に大金を積んで、明日の二十四時間を今日使わせてほしいと頼んでも、聞き入れられるわけがないのです。その意味では、時間は金持ちにも貧乏人にも平等に与えられています。
わたしたちは、今日をしっかりと生きるよりほかありません。
未来のことはわたしたちの権限にないのだから、ほとけにまかせておくよりほかありません。釈迦が言う、「誰か明日の死のあることを知らん」です。明日、わたしがぽっくり死んでしまうかもしれない。それなのにわたしたちは、来週のこと、来月のこと、来年のことを計画しています。
と、このように書けば、「そうだ、あしたはあしたの風が吹く。くよくよしたってしかたがない」と、あなたは思われるかもしれません。そういえば、「ケ・セラ・セラ」といったスペイン語がありましたね。「なるようになる」といった意味です。一九五六年のアメリカ映画『知りすぎていた男』の主題歌の題名でもあります。明日はなるようにしかならないのだから、くよくよするのはよそう。あなたがそう思えば、まあ半分は釈迦のことばを理解しているのです。
でも、半分だけです。
あとの半分は、釈迦が言う、
「ただ今日なすべきことを熱心になせ」
にあります。それを忘れてもらっては困ります。
では、今日なすべきこととは何でしょうか......?
それは、明日のための準備ではありません。
金儲けというのは、明日のための準備ですよね。会社の仕事を一生懸命にするのも、やはり明日のための準備です。大学入試のための受験勉強も同じです。あるいは、ガン患者が治療に励むのも、明日のための準備です。
しかし、早合点しないでください。わたしは、会社の仕事はいっさいするな! と言っているのではありません。金儲けをやめよ! と言うのではない。仕事をしないでいれば、今日生きることすらできなくなります。現代社会においては、お金なしで生きることはできません。
わたしが言っているのは、明日の準備としての仕事に専念してはいけないということです。それは今日なすべきことではないからです。
大学入試の受験勉強も、合格だけを目指して勉強するのは、明日への準備です。そうではなくて、いま現在を楽しく勉強する、そういう勉強ができるはずです。そしてそういう楽しい勉強をするのが、今日なすべきことなんです。
ガン患者の場合、ガンの治療にだけ専念するのは、明日のために今日を放棄したことになります。治療をするな!
言っているのではありませんよ。どうも誤解されそうなので、同じことを繰り返しますが、治療はしてもいい。しかし、治療ばかりに一生懸命になるのは、今日を放棄したことになります。現代日本の医療はそこのところがおかしくなっています。患者に、病気の治療に専念させようとします。そういう医療はまちがっています。
たとえば、生まれながらに目の見えない人がいます。その人は、目が見えないまま一生懸命に生きているのです。今日なすべきことを熱心にしている。それと同じく、ガン患者はガンのまま一生懸命に生きるべきです。ガンの治療をしてもいいが、それは副次的にして、ガンのままで今日なすべきことをするのです。それが釈迦の教えです。
そうして、未来に対しては、すべて仏におまかせしましょう。ガンが治るか治らないか、それは仏が決めてくださいます。大学に合格できるかできないか、それも仏におまかせします。わたしたちは、今日を楽しく生きればいいのです。
ローマ帝政期の詩人のホラティウス(前六五―前八)に、
《 カルペ・ディエム 》
といったことばがあります。「現在を楽しめ」といった意味。もう少し詳しく引用すれば、
《 現在を楽しめ、できるだけ少なく未来を信頼せよ 》
と言うのです。あまり未来を考えず(未来に期待せず、また未来を思い悩まず)、現在をしっかりと生きよ。ホラティウスはそうわれわれに助言してくれています。
釈迦の教えと同じです。
1936年、大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。同大学院人文科学研究科印度哲学専攻博士課程修了。1965年から1985年まで、気象大学校教授を務める。膨大で難解な仏教思想を、逆説やユーモアを駆使してやさしく説く語り口は、年齢・性別を超えて好評を博している。
著書に、『釈迦とイエス』(新潮選書)『ひろさちやの般若心経88講』(新潮文庫)『お葬式をどうするか』(PHP新書)『「狂い」のすすめ』(集英社新書)『「デタラメ思考」で幸せになる!』(ヴィレッジブックス新書)『悩まない』(小学館)など多数。