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社会

満洲建国の真実 建国の高き志「五族協和」

中西輝政(京都大学名誉教授)

2012年07月04日 公開 2022年08月29日 更新

中国の不当な圧迫、大正外交の失敗

 なぜ、日本はここに至るまで抜本的な手を打てなかったのでしょうか。たしかに1920年代に入ると、「アメリカの反対」を恐れて、ということはあったでしょう。しかし、辛亥革命が起こって本質的には「無主の地」となった満洲における日本の立場は、以来ずっと不安定なものだったのです。大正12年(1923)には、ロシアから引き継いだ日本の租借権の期限が迫っていたからです。手を打つなら1910年代でした。

 ところが、日本外交は失策を続けます。とりわけ拙劣だったのが、大正4年(1915)の袁世凱政権に提示した、対華21カ条要求です。今日、「日本の侵略外交の典型」として語られるその要求の骨子は、実はこの満洲権益の租借権延長にありました。前述したような、この権益の日本にとっての重要性を考えれば、今日の日本人でも租借権の消滅は、座視できないはずです。

 問題は、大隈重信内閣が最後通牒を中国側に突きつけた点でした(「第5項」と称される、明白な内政干渉にわたる要求は、すぐに日本側が撤回していた)。当時、奉天総領事館勤務であった東郷茂徳  <とうごうしげのり> (後に外相)は、「(中国の)国民に日本の要求の受諾を納得させるために、日本から最後通牒を出して欲しい、という中国政府の求めに日本側が不用意に応じたもの」と回顧録『時代の一面』で明かしています。

 袁世凱は、日本が求めに応じて最後通牒を出すと、国際社会に向けて盛んに「日本の非」を訴え、中国内の反日感情を煽り立て、その結果、今日に至るまで日本の「侵略外交の象徴」とされてしまったのです。霞が関外交の大失策と言えるでしょう。

 さらに先に触れた第一次南京事件でも、時の若槻 <わかつき> 内閣の外相・幣原 <しではら> 喜重郎は大失策を犯していました。幣原は「中国革命にソ連共産主義の影響が色濃く及んでいるなどと見るのは被害妄想だ」と言い放ち、イギリスからの居留民保護のための共同出兵の提案を拒絶しました。「日支友好」のスローガンを文字通り実践しようとした幣原外交の、「抜け駆け」的な対中宥和 <ゆうわ> 姿勢に、英米は「日中の陰結」を疑い、逆に日本は孤立を余儀なくされていくのでした。

 一方の中国は幣原の「対支絶対不干渉」の政策を日本の弱さの表われ、と見て、日本を侮蔑し始め、日本への攻勢をますます強めます。さらに幣原が南京にいる日本人に「抵抗禁止」を命じたために、南京の日本領事館の公使夫人を始めとする多くの日本人女性が陵辱されるなどの事態を惹起し、日本国内では「幣原軟弱外交」への不満が昂然と高まりました。

 その結果、若槻内閣は崩壊しますが、その後の田中義一内閣は、対中政策を転換し、北伐軍から日本人居留民を守るべく、昭和2年に「山東出兵」を行ないます。しかし、これは遅きに失した感がありました。すでに広がっていた中国の反日ナショナリズムの火に油を注ぐ結果になったからです。翌、昭和3年(1928)、満洲を支配していた軍閥・張作霖の爆殺事件が起き、彼を操縦して何とか満洲の権益を守ろうとしてきた田中内閣は総辞職に追い込まれてしまいます。

 このような大正外交の迷走と多くの致命的な失敗を生んだものは何か。それを、当時、外務省の非主流派に身を置いていた吉田茂(戦後の首相)は、昭和3年(1928)4月、『対満政策私見』という意見書の中で見事に喝破しています。

 それによると、「従来の対支政策頓挫の原因」は、第一に、第一次世界大戦後、「民族自決等、一時、人(の)口に上れ」る戦後特有の国際協調と平和思想を、日本人だけが、そのまま信じ「余りにも多く」盲従したこと。第二に、「日支親善、共存共栄等の空言」に捉われ過ぎたこと。第三に、「対支国家機関の不統一」にあると指摘します。そして吉田は、日本の失敗の根本原因は、「満蒙経営によって我国民の生活の安定を計らんとする国策の遂行を、国力自体の発動に求めずして、一にこれを空漠なる日支親善に求」めたことにあった、と結論して、国際法に則った正面からの堂々たる軍事力の発動を避けてはならないと力説しているのです。至当の洞察だったといえましょう。

 ここまで見てくると、満洲事変の本質は、「軍国主義」や「侵略戦争」などではなく、日本の合法的な国益に対する中国側からの不当な圧迫と、それに対処すべき日本外交のナイーヴかつ姑息な失敗にあったことがお分かりいただけるでしょう。今日の日本と二重写しになる問題といわざるを得ません。辛亥革命から満洲事変に至るまでの年月は、まさに“失われた20年”というべきものだったのです。

 

なぜ、起たねばならなかったのか

 張作霖爆殺事件については近年、コミンテルン犯行説など議論が活発化していますが、この事件がもたらした最大の結果は、張作霖の跡を継いだ息子・張学良が事件直後に、突如として、「満洲は中国国民党のものである」と全世界に劇的に示した(易幟・えきし)ことでした。

 このことは、排外ナショナリズムに依拠して満洲における日本の合法的な権益を一方的に廃棄する、と公言していた国民党の手によって満洲が決定的に「中国化」されることを意味しました。

 実は張学良は父の爆死以前に、父の敵である蒋介石の国民党に秘密入党していたことが判明しています(米スタンフォード大学所蔵『蒋介石日記』)。張学良はまさに「満洲を盗んだ男」だったと言うべきでしょう。

 国民党が中国統一を成し遂げたことで、「革命外交」は一層過激化しました。日本の外交官・重光葵 <しげみつまもる> (後の外相・副総理)によると、昭和5年(1930)、国民政府の外交部長・王正延は「満鉄や関東州を含む全ての日本の満洲権益は中国側の一方的な宣言によってすぐに撤廃する」と傲然として言い放ったと言います(重光『昭和の動乱』)。それはまさしく、宣戦布告に準じる事態でした。

 こうして日本は、軍事力に訴えて自らの権利を守るしか選択の余地がなくなったのです。あとは、その具体的な方法とタイミングの問題だけでした。何もしなければ、もはや満洲権益が失われるのは誰の目にも明らかでした。

 しかも、多くの日本人をさらに激怒させた有名な「万宝山事件」や「中村震太郎大尉虐殺事件」が起こります。これだけの流れがあったからこそ、「満洲事変勃発」の報に、あれほど多くの日本人が熱烈な支持を送ったのです。

 たしかに、満鉄線の「爆破」など、そのやり方は近視眼的に見ると拙劣だったかもしれません。しかし、満鉄や関東州の中国による「接収」が迫り、在満日本人・朝鮮人100万人の生活と安全が危機に晒されているという切迫感の中、田中内閣総辞職後に成立した濱口雄幸内閣で、またもや「日支親善」と「対支宥和」しか方策を持たない幣原喜重郎が外相として復帰しており、幣原が必ず軍事力の行使を抑えにかかることは誰の目にも明らかでした。「政府をして後戻りできないところに追い込む」、それが関東軍の考えだったのです。

 非はどちらにあったのか、一義的な答えは難しいはずです。この、本当のギリギリの感覚を理解せずに満洲事変は語れないからです。

 そして瀬戸際に追い詰められながらも、満洲事変は、単なる権益保持のための武力行使ではなく、「五族協和」、「王道楽土」という児玉源太郎以来のあの理想に即して行なわれたことも、併せて評価すべきでしょう。

 さらに関東軍の行動は、戦略的には“ソ連の脅威を防ぐ”ためのものでもあり、だからこそ、ソ連の影響力の浸透していた北部満洲までの占領が必要だったのです。

 外交を誤り続けた幣原ら日本政府に対し、関東軍は中国の裏で蠢動 <しゅんどう> するソ連の野望を正しく見抜いていました。この関東軍の懸念がいかに正しいものであったかは、日本の敗戦後に明らかになります。

 中国全土は、戦後、満洲を占領したソ連に助けられて内戦に勝利した中国共産党の支配するところとなり、周辺民族――チベット、モンゴル、ウイグル、そして満洲族などの民族自決権は共産主義のイデオロギーによって無残に踏みにじられることになりました。そしていまだ東アジアは、平和とは程遠い状況に置かれているのです。

 現在、中国政府は満洲国を不自然なほど執拗に、必ず「偽満洲国」と呼びますが、それは満洲国が、他の少数民族から見れば、それだけ正統性を持つことへの裏返しと言えるかも知れません。もしこれが「偽」でないとなると、中国内の少数民族の漢民族への統合政策は破綻する、という恐怖感を、今も中国政府が抱いているように思われるからです。

 満洲事変と満洲建国を、当時の日本が置かれたギリギリの危機を考慮せず、単に“関東軍の暴走”とか“昭和の侵略戦争の始まり”などと捉えるのがいかに虚妄か、もはやお分かりいただけたことでしょう。ちなみに事変から2年後の昭和8年(1933)には、日本と国民政府との間に「塘沽 <タンクー> 停戦協定」が成立しており、日中間は正常な国交関係に復していました。満洲建国と大東亜戦争は、全く異なる歴史的局面にあったのです。

 大東亜戦争に至る流れの「始まり」というべきは、昭和12年(1937)の支那事変に他なりません。特に、その後半期、日中の和平交渉に挫折した日本が日独伊三国同盟を結んで「南進策」をとり、東南アジアにまで進出を企てたことこそ、昭和の最大の失策であり、満洲国にとっての大きな悲劇でした。

 しかし、それと満洲建国に至るまでの日本人の志を同一視することは断じてできません。満洲という曠野に賭けた日本人の夢、そして満洲国が掲げた「五族協和」という理念は決してお題目ではなく、明治維新から連綿と受け継がれてきた「アジアの連帯」という志に連なるものだからです。満洲事変と満洲建国後の十余年――それは、短くはあれ、満洲という地において明治維新の理想が最も実現に近づいた、近代日本の「輝ける瞬間」と言うべきものだったのです。

著者紹介

中西輝政(なかにし・てるまさ)

京都大学名誉教授

1947年、大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。英国ケンブリッジ大学歴史学部大学院修了。京都大学助手、三重大学助教授、スタンフォード大学客員研究員、静岡県立大学教授を経て京都大学大学院教授。2012年退官し現職。専門は国際政治学・国際関係史、文明史。1997年『大英帝国衰亡史』(PHP研究所)で毎日出版文化賞・山本七平賞受賞。2002年正論大賞受賞。
著書に『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』(PHP新書)『帝国としての中国』(東洋経済新報社)『日本の「死」』『日本の「敵」』(以上、文春文庫)『本質を見抜く「考え方」』(サンマーク出版)など多数がある。

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