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生き方

僧侶が説く、生きるのがラクになる「執着の手放し方」

大愚元勝(僧侶)

2023年12月27日 公開

何かや誰かへの「執着」は、あなたの心を縛りつけ、苦しめます。執着とどう向き合っていけばいいのか、仏教の教えから一緒に考えていきましょう。

※この記事は『PHPスペシャル』2024年1月号より、記事の一部を抜粋・編集したものです

 

一瞬の快楽が苦しみの根源

お釈迦様は「どんな苦しみが生ずるのでもすべて執着に縁って起こるものである」という言葉を残されています。ままならないことに対して、「こうあってほしい」と望む執着心こそが、苦しみの原因だというのです。

私たちは日々、「幸せ」を求めて生きていますが、自分が「こうあってほしい」と求めている理想にたどり着くことは、なかなかできません。お釈迦様は「人生は苦の連続である」とおっしゃっていますから、望むところにたどり着けないのは当たり前のこと。それなのに、私たちはつい目の前の快楽に心を奪われ、それを人生の幸せと勘違いしてしまう。これが執着の始まりなのです。

私たちが持つ感覚機能には「五感」がありますが、心も感覚機能の一つであるとするのが仏教の考え方です。心には「眼、耳、鼻、舌、身、意」の「六根」が備わっていると説かれています。

日々生活をしていると、身の回りには六根を刺激するものが溢れています。きれいな洋服、楽しい音楽、美味しい匂いや味がする料理......。こうした刺激は快いので、私たちはそれを「幸せ」であると勘違いしてしまいます。

しかし、それらの快楽は一時的なものなので、長くは続きません。そこで「もっと、もっと」と幸せを追い求め続けてしまう、すなわち執着するというわけなのです。

執着は快楽、つまり欲と結びついていて、誰もが持っているもの。問題は向き合い方です。今回は、「モノ」「人」「習慣」「考え方」への執着に分けて、その方法についてお話ししましょう。

 

執着からくる悩みとは?

執着の対象は人それぞれ。これらの悩みもすべて、執着からくるものなのです。

・昔の恋人が忘れられません。二度と会うことはないと思うのですが...。

・ついお菓子に手が伸びてしまいます。何度ダイエットに失敗したかわかりません。

・部下が何度も同じミスをします。私はちゃんと丁寧に教えているのに...。

・ママ友グループの集まりに来ない人がいます。彼女のためを思って誘っているのに、失礼では?

・部屋が散らかってしまいます。いつか使えそうな気がして、なんでもとっておきたいんです。

・インターネットがやめられず、睡眠不足です。次の日も早起きしないといけないのに!

・学生時代の賞状が捨てられません。当時の思い出まで捨てるようで、怖いです。

・結婚を機に、子どもが我が家に寄り付かなくなりました。息子を嫁にとられたような気がします。

あなたにも似たような悩みはありませんか? 次章からは、これらの悩み、執着を手放すヒントをご紹介します。

 

モノへの執着を手放すヒント...モノの前に、生き方を見直す

「整理整頓」という言葉がありますね。整理とは、不要なものを捨てること、整頓とは、たくさんあるモノの中から必要なものを見極めて元に戻すことだと、私は定義しています。

したがって、捨てられない、片づけられないというのは、自分にとって今、何が必要なのか、何が不要なのかが見えていないということです。その状態のまま断捨離しようと思っても、うまくいくはずがありません。すべて必要だと感じるのは、本当に大切なものを判別できていないともいえます。

モノに限らず、「仕事の経験」や「家内安全」など、自分にとって大切なこと、必要なことを紙に書き出してみてください。自分の生き方や考え方を見つめ直したうえで家の中を見回せば、「捨てるべきもの、残すべきもの」がはっきりしてくるでしょう。

私自身、3カ月に一度この作業を行なっていますが、部屋だけでなく心の中もスッキリします。捨てるときには、一人だと迷いが生じるので、友人や家族に手伝ってもらうことをお勧めします。

 

人への執着を手放すヒント...「あの人」ではなく、自分への執着だと気づく

「六根」のうちの「意(心)」は、過去や未来など、目の前には存在しないものを認識すること。これが、出口のない悩みを生み出してしまいがちです。過去の出来事を悔やんだり、よくない未来を妄想したりすることが、苦しみを生む種になります。

「あの人はなぜ、私から去っていったのか」「別れた恋人が忘れられない」と悩んでいる人は少なくありません。しかし、その悲しみや怒りは、「あの人」が生じさせているのではなく、あくまで「妄想」なのです。

過去の関係は、今はもう存在しません。終わったことに対して「意(心)」を反応させ、自ら悲しみや怒りを招いているだけ。あなたが執着しているのは「あの人」ではなく、それだけ相手のことを考えていた自分自身なのです。ですから、忘れられない関係に区切りをつけるのは、他でもない、自分です。

「以前の関係は終わった。」と何度も書いてください。書くときは「。」を忘れずに。この執着を手放す練習を続けるうちに、心の中にはっきり「。」を打つことができますよ。

 

習慣への執着を手放すヒント...自然の中に身を置いてみる

相談に来た方で、「ブランド品を買うのがやめられない」という人がいました。お金にも困っているのに、習慣になっていてやめられない、いわゆる依存症の状態です。

この方は、じつはブランド品が欲しいわけではありません。心の満たされていない部分を埋めてくれるのが、ブランド品を買ったときの一瞬の高揚感だったのです。こうした習慣への依存は、心の傷がもたらす寂しさや虚しさが原因である場合が多く見られます。自分が本当は何を求めているのか、考えてみましょう。

「自然(じねん)」という禅語があります。「自ずから然り」、つまり自分自身に満足するという意味です。今の自分に満足できれば、自分以外の何かに依存して幸せを得たいという気持ちが消えて、習慣への執着はなくなります。

習慣への依存から抜け出すために、自然に触れましょう。公園で散歩をするだけでも構いません。人知の及ばない環境に身を置けば、社会のシステムに縛られる必要はなく、あるがままの自分でいいと気づき、心が満たされていきます。

 

考え方への執着を手放すヒント...「どうにもならないこと」に心を砕かない

人間関係の悩みの多くは、他人に不満を持ち、欲求が満たされないことが原因です。「こうあるべき」という自分の思い込みに縛られた「貪(とん)」の状態に陥っています。

「貪」とは、仏教で心の三毒と言われる「貪瞋痴(とんじんち)」の一つで、あれこれ欲すること。他人に「もっと〜してほしい」「〜すべき」と求め、その不満が怒り(瞋)へとつながるのです。しかし、その不満や怒りの発端は自分の「我」が強すぎるから。悩みの原因はほぼ、自分の中にあるのです。

他人のことは、自分ではどうにもできません。イライラするだけエネルギーの無駄。それよりも、自分を変えたほうが得策です。

「観自在」という仏教の言葉があります。自分が見ている対象を、何にもとらわれない状態で見る、ということです。他人の言動や世の中の現象を、「我」のフィルターを通してではなく、相手の立場や社会的背景など、さまざまな角度から見る練習をしましょう。すると次第に、「こうあるべき」という考え方から解き放たれていきます。

 

~放てば手に満てり~

鎌倉時代のお坊さんで、日本における曹洞宗の開祖である道元禅師が、次のような言葉を残されています。

「放てば手に満てり」

現代の感覚だと、このお言葉は「今執着しているものを手放せば、結果としてそれが手に入る」と解釈されがちですが、道元禅師がおっしゃっているのは、そういうことではありません。

繰り返しになりますが、執着の元となっているのは私たちの五感を通り過ぎていく瞬間的な快楽です。快楽が過ぎ去ってしまえば「もっと、もっと」と執着が続き、手に入れられないことに苦しみます。道元禅師がおっしゃるのは、執着を手放せば、落ちついた穏やかな心、つまり本当の幸せが手に入る、ということなのです。

とはいえ、執着というのは手放そうと思うほど、なかなか手放せないもの。執着を手放すことに執着してしまう人もいます。というように、執着は何とも厄介なものなのですが、重要なのは自分が「何かにとらわれている」という状態に気づくこと。自分を客観視できれば、少しずつ執着のほうから離れていくでしょう。

 

著者紹介

大愚元勝(たいぐげんしょう)

僧侶

佛心宗大叢山福厳寺住職。僧侶・作家・事業家・セラピスト・空手家と4つの顔を持つ。YouTubeのお悩み相談チャンネル「大愚和尚の一問一答」は、登録者60万人を超える(2023年10月現在)。著書に『自分という壁』(アスコム)などがある。

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