「女の努力は冷笑されてきた」伝説のテニス選手ビリー・ジーン・キングが示した性の平等
2024年03月08日 公開 2024年12月16日 更新
テニスを通して、女性の人権のために闘いつづけた女性ビリー・ジーン・キングは、すべてに全力を尽くし闘いつづけてきました。
自身がレズビアンであることをアウティングされた経験から、LGBTQ+の人権保護活動にも尽力し、オバマ元大統領から女性アスリート史上初の大統領自由勲章を授与。
「世界一尊敬される女性」(米雑誌Seventeen)や「最も重要な20世紀のアメリカ人100人」(米雑誌LIFE)など、多くの栄誉にも輝いています。80歳を迎えた彼女が信念に満ちた半生を、初めて語ります。
※本稿は、ビリー・ジーン・キング著、池田真紀子訳『ビリー・ジーン・キング自伝』(&books/辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
世界を夢見た子ども時代
子供のころ、カリフォルニア州ロングビーチの小学校の教室でプルダウン式の大きな世界地図をながめては、そこに描かれた国や地域をいつか訪れる白昼夢を見た。イギリス、ヨーロッパ、アジア、南アメリカ、アフリカ! このころすでに、国境線なんて軽々と越えていけるつもりでいた。
国境線はおいでと私を誘っていた。物心ついたときから一つのところにじっとしていられず、いつも何かしら大それた夢を抱いていて、思い立ったらすぐに行動しなくては気がすまなかった。家族や生まれ故郷を心の底から愛していたが、人生はきっとその2つから遠いところへ私を連れていくだろうと信じていた。
私は1940年代、第二次世界大戦中に生まれ、50年代の保守の世に育ち、60年代の冷戦とカウンターカルチャーのただなかで大人になった。父は消防士で、母は家事を切り盛りするかたわら、ときおりタッパーウェアやエイボンの化粧品の訪問販売をして家計を助けていた。
複雑な家庭環境で育った両親は、愛情あふれる安定した家庭を私と弟のランディに与えてくれた。その一方で、世の中は揺れ動いていた。私の子供時代の背景には、市民権運動や女性解放運動(ウーマンリブ)、冷戦、暗殺事件、1960年代の反戦運動があった。LGBTQ+運動の盛り上がりはまだ少し先の話だ。
1950年代に私がユーステニスでプレーを始めた時点では、女子を対象とする大学スポーツ奨学金は一つも存在しなかった。そのころあった女子のプロスポーツ組織は、全米女子プロゴルフ協会(LPGA)だけだった。
LPGAは1950年、13名の選手によって創設されたものの、スポンサー獲得と認知度向上はまだ思うように進んでいなかった。
私たちがいまスポーツ選手の男女同権運動と聞いて思い浮かべるような動きが始まったのは、1970年、私を含めた9人の女子テニス選手と『ワールド・テニス』誌の創刊者でやり手のビジネスウーマンだったグラディス・ヘルドマンが男性主導のプロテニス協会から離脱し、初の女子プロテニストーナメントを創立した日といっていい。
男性に支配された当時のプロテニス組織は、女の試合など金を払ってまで観たがる人がいるものかと私たちをせせら笑い、現に金を払ってまで観たがる人が一定数いるらしいとわかると、出場停止処分を下すと繰り返し脅してきた。
「女だから」というだけで
私は初めから世界に不満を抱いていたわけではない。けれど世界のほうは、私のような女の子、私のような女がはっきりと気に食わないらしかった。
テニス大会に出場が決まり、学校を一週間休もうとしたときは校長の許可が下りず、母が学校に出向いて「うちの娘はオールAの優等生です。何がどう問題なんです?」と直談判してようやく承諾書にサインをもらった。
あるいは、休み時間にみんなと校庭で遊んでいるとき、「ビリー・ジーンは運動神経が優れているのをいいことに、ほかの生徒を負かそうとしがち」だから、学科の成績を一段階下げたと説明する手紙を両親に送ってきた教師もいた。
私が11歳で初めて出場した大会では、出場選手が集合写真撮影のために集まったとき、地元のテニス協会の会長ペリー・T・ジョーンズから、白いスコートやワンピース型のテニスウェアではなく白のショートパンツ姿だからというだけの理由で、私一人だけつまみ出された。
その当時、女の子あるいは女が目標を掲げてそれに取り組もうとすると、冷笑されたり、難癖をつけられたりすることが少なくなかった。私は納得がいかなかった。
なぜ勝手な制限を押しつけようとするのだろう。理にかなった疑問を投げかけているだけなのに、女だとなぜ"ヒステリック"といわれるのか。
なぜいつもいつも「これはできない。あれはやってはいけない。野心はほどほどにし、自己主張をせず、立場をわきまえ、実際よりも能力が低いふりをしていること。とにかく言われたとおりにしていなさい」と諭されなくてはならないのか。
女の努力や個性はなぜ、人生を充実させるもの、自尊心のよりどころとして尊重されるのではなく、扱いにくいものとして敬遠されるのか。
テニスを始めたばかりのころ、私が出場した大会を主催するカントリークラブは白人専用で、私が通っていた人種混合校ロングビーチ・ポリテクニック高校とは明らかに空気が違っていた。
ポリテクニック高校は、私が生まれる前、1934年に人種差別を撤廃した。ただ、私が通っていた当時もまだ女子の運動部はなく、テニスがやりたければ、市営公園で開かれていた無料テニス教室に通うしかなかった。
時が流れても、状況証拠はますます高く積み上がる一方だった。たとえばランキング上位の男子ジュニア選手はロサンゼルス・テニスクラブの食堂で無料のランチを食べられたが、母と私はコート裏のベンチに座り、茶色い紙袋で持参したお弁当を食べた。私だってジュニアのトップ選手の一人だったのに、女子選手への支援は皆無だった。
15歳のとき、私がある大会で優勝すると、のちに頼れる助言者となったある男性が声をかけてきてこう言った。
「きみはいつか世界一になるよ、ビリー・ジーン」
そんなことを言われたのは初めてだったから、私は有頂天になった。しかしだいぶあとになって、その同じ人が、私のバックハンドを褒めるような何気ない口調でこうも言った。
「きみはきっと一流の選手になれる。それだけ不細工なら」
ラリー・キングと結婚し、世界ランキング1位に昇り詰めてからも、テニスにそこまでする"価値"が果たしてあるのか、あなたはいつ引退して子供を産むのかと、ことあるごとに尋ねられた。
そのたびに私は、同世代の男子トップ選手を引き合いに出して、「相手がロッド・レーヴァーでも同じ質問をします?」と訊き返した。
女はかならずしも男女同権運動の活動家として生まれてくるわけではない。けれど人生は、女をかならず活動家に育て上げる。現状打破を求める気持ちは年齢とともに強くなった。乱気流にもまれていたのは時代だけではなかった。私の内側の嵐も勢力を増していった。
世紀の対決
1973年のボビー・リッグズとの〈男女対抗試合(バトル・オブ・ザ・セクシーズ)〉こそ、ついに機が熟し、私のなかの導火線に火がついた瞬間だった――そんなイメージがいまも世の中に定着したままになっている。
しかし実を言えば、その火種は子供のころから私の心のなかにあって、ずっとくすぶり続けていた。リッグズ戦や世間の熱狂が浮き彫りにしたのは、性別役割(ジェンダーロール)と機会均等をめぐって私と同じように闘い続けている人が何百万人、何千万人もいるという現実だった。
私があの試合で証明したかったのは、女は平等に扱われるに値すること、女だって男と同じようにプレッシャーのもとで巧みなプレーを見せて観客を楽しませられるということだった。試合の結果、そして試合をきっかけとして沸き起こった議論は、私たちの闘いをさらに一歩進める原動力になったと思う。
73年9月の試合当日、会場となったテキサス州ヒューストンのアストロドームには、当時のテニス試合の動員記録を更新する3万472人の観客が詰めかけた。全世界では9000万人がテレビ観戦したといわれ、スポーツイベントの視聴者数の最高記録を樹立した。
意外にも、私を分離主義者と見なす人がいまもいる。私は平等主義者だ。初めからずっとそうだった。どれだけ難しい目標であるかはわかっているが、万事における平等、あらゆる人々が力を合わせる社会の実現をめざして力を尽くしてきた。
その過程で学んだことがある。社会は、そして各世代のリーダーは、その時代のありようと意味について、繰り返し自問しなくてはならない。キング牧師の妻コレッタ・スコット・キングは、そのことを次のように鮮やかに表現している。
「闘争は終わることのないプロセスです。自由を完全に勝ち取れる日は来ません。世代ごとに闘い、勝ち取っていかなくてはならないのです」
〈南部キリスト教指導者会議〉や〈全米黒人地位向上協会〉の活動は今日、ブラック・ライヴズ・マターなどの運動に引き継がれている。〈全米女性機構〉が深めた男女同権論は、〈#MeToo〉〈タイムズ・アップ(TIME’S UP)〉運動の礎石となった。
1969年の〈ストーンウォール暴動〉〔1969年6月28日にニューヨークのゲイバー〈ストーンウォール・イン〉で発生した"暴動"。たびたび行われていた市警の踏み込み捜査に対する怒りが頂点に達し、LGBTQ+コミュニティが抵抗・反撃、多数の負傷者が出た。性的マイノリティ解放運動の出発点とされる〕は〈力を解放するエイズ連合〉〔1987年創立の市民団体。政府や製薬医学界のAIDSに対する無理解に抗議し、有効な対策を求めた〕の創設につながり、それがさらにLGBTQ+の人権や婚姻の平等化という、かつてはとうてい実現不可能と思われた進歩をもたらした。
メディカルスクールやロースクールのごくわずかな女性入学枠をめぐって女同士で競争せざるをえなかった時代は、そう遠い過去ではない。
それがいまや女が大統領候補になり、あるいは連邦最高裁の判事に指名されて"ノートリアスRBG"〔2020年9月に死去したルース・ベイダー・ギンズバーグのこと。「ノートリアス(notorious)は、「悪名高き」という意味だが、この場合は敬愛の情や「知らぬ者のない」といった意味がこめられている 〕などというニックネームで呼ばれたりしている。彼女が力とともに眠らんことを(Rest In Power)。
私が人生から得た、何より大切な不変の教訓を2つ。一つは、不平等を前にしてただじっと座っているだけで、世の中がよいほうへ変わるなどまずありえないこと。そしてもう一つは、精神の力を侮ってはならないことだ。人の精神を檻に閉じこめることは、誰であっても不可能なのだから。
小さな火花から始まった高遠な理想は、その人自身を高めるだけでなく、世界を一変させる力を秘めている。個人的なことは政治的なこと〔1960年代以降、とりわけフェミニズム運動で繰り返し使われているスローガン〕。
たった一人では小さなつぶやきでも、大勢が声を上げれば世界に轟く。勇敢な行動一つが――めざすものが万人に認められるべき人間の尊厳であれ、同一労働同一賃金やバスの前方の座席であれ――歴史を変える運動に火をつけることがある。
あなたはふいに、各国の大統領や女王、英雄やパイオニアたちに負けない影響力を持つかもしれない。あるいは、自分たちを劣っているように見せたり、自分たちの存在自体を消そうとしたりしているような現状をよしとしない、反骨精神にあふれた人々と同等の力を。
真の自由を手に入れるまで
私の人生が、いまここに挙げたすべてを証明している。
1981年、同性愛者であると暴露(アウティング)されたとき、企業スポンサーは一夜にして残らず撤退した。現在の私なら、笑ってこう考える。「ちょっと待ってよ――いまの時代、レズビアンだとお金がもらえるのに?」
おっと、少し先走りすぎたようだ......。あのころはまだ、私が望むような世界は存在していなかった。その世界を実現できるか否かは私たちの世代にかかっていた。大戦直後のベビーブームへの変わり目に生まれた私たちは、古きを捨てて新しきを築くという危うい綱渡りをしてきた。時代は私に大きく味方した。
一方で、私が背負った荷は重く、50歳になるころには完全に押しつぶされかけていた。あれほどの重荷を経験した人はそういないだろう。私の最大の敵は、ときに私自身だった。
私は怒りに駆り立てられていると世間は見ていた。けれど、それは違う。最大の原動力は、信念だった。私はほかの人よりも多くの闘いに勝利してきた。でも、この本で伝えたいのは、真の自由を手に入れるまでの闘いについてだ。