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生き方

老後の生活が豊かな人に共通する「お金の使い方」

保坂隆(精神科医)

2024年08月15日 公開

古くから日本人は、簡素な暮らしの中に豊かさを見出してきました。あるものだけで満ち足りる暮らしは、現代人が求める物質的な豊かさとは対照的です。しかし、老後の生活は限られた資金の中でいかに充実したものにするかが課題となります。

そこで重要なのが、古来より受け継がれてきた「足るを知る」という精神なのです。書籍『お金をかけない「老後」の楽しみ方』から紹介します。

※本稿は、保坂隆著『お金をかけない「老後」の楽しみ方』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

簡素の中に「高度な精神世界」を楽しんだ日本人

テレビの番組で、ブルボン王朝の栄耀栄華をいまに伝えるフランスのヴェルサイユ宮殿を見たことがあります。宮殿の内部は目もくらむばかりのゴージャスさ。天井からはきらめくシャンデリアが数えきれないほど下がり、壁面は重厚なタペストリーで覆われています。家具調度も絢爛豪華......。どこもかしこも一部の隙もなく飾り立てられ、ただただ圧倒されました。

北京の紫禁城も過剰なほどの装飾で埋め尽くされていますし、韓国の王朝ドラマからも城内が華やかに飾り立てられていた様子が窺えます。

これに比べて、日本の御所や城は簡素で素っ気ないくらいです。天皇や城主の権勢を示しているのは、格天井や金泥などで描かれた襖絵ぐらい。謁見の座も配下の者の位置より一段高くなっているだけで、家具調度もほとんど置かれていません。

これは日本が貧しい国だったからでしょうか? いえ、ヴェルサイユ宮殿や紫禁城との違いは富の差ではなく、日本人は本来、欲を膨らませたり、富をひけらかすのは卑しいことだと考える精神性を持っていたからだ――。私はそう考えています。

それは、太閤・秀吉が純金の茶室を造ったときの、千利休をはじめとする周囲の冷ややかな蔑視を込めたまなざしにも窺えると思います。古来、日本人は、モノのないすっきりとした空間のほうが、むしろ豊かなイマジネーションを羽ばたかせることを知っていたのです。

正面に松を描いただけの能舞台など、その象徴と言えるでしょう。観客はこの松だけの舞台に、あるときは深山幽谷を、あるときは大海原をと、千変万化の自然をイメージし、森羅万象に通じる世界に心を遊ばせるという高度な精神世界を楽しんでいたわけです。

その日本人がいったいいつ頃から、ものを所有することにこだわり、あふれるほどのものに埋もれた暮らしをよしとするようになってしまったのでしょうか。

現代の私たちにとって、仕事上の義理や世間付き合いのしがらみから解放される老いの日は、不要なものを整理して、身の周りをすっきり整えて、簡素であることの歓びを取り戻す絶好の機会だと思います。

必要なものだけがある暮らし。あるいは、あるものだけで満ち足りる暮らし。年長の人間がそうした暮らしを取り戻せば、そこを訪れる子どもや孫など次世代にも浸透していき、日本人が長く伝えてきた精神性豊かな、簡素な暮らしの心地よさを伝えていくことができるのではないでしょうか。

社会が高齢者に求めているのは、日本文化の真の精神性を継承し、後の世代に伝えていく「中継役」だと思うのです。

 

「どんなに財があっても、欲が多ければ貧しい」

幅22メートル、奥行き10メートルほどの敷地に、白砂を一面に敷き詰め、15の石を置いただけの庭。石にむしたコケの緑だけが色彩らしい色彩で、あとは白砂につけられた箒目だけがわずかな動きを感じさせる......。世界的にも名高い、龍安寺の石庭です。日本の簡素美を象徴する庭だということもできるでしょう。

この庭の前にたたずむと、美しさを感じるのに花も要らなければ、木々の茂りも必要ないことが心にひたひたと迫ってきます。この庭で心を洗い、さらに歩を進めれば、茶室蔵六庵の路地に、もう一つの日本人の精神性を象徴する「知足の蹲踞(ちそくのつくばい)」が据えられています。

蹲踞とは、茶室の前に据えられた手水鉢のことで、ここで手や口を清めてから茶室に入るのが作法です。ここの蹲踞は時計回りに上から一見、「五」「隹」「疋」「矢」と読める字が彫り込まれており、手や口を清める中央の四角い大きな掘り込みを「口」という「へん」や「つくり」に見立てて、「吾唯足知(吾唯足るを知る)」と読むのです。

この「足るを知る」という精神は、仏教の教えの真髄だといっても過言ではありません。釈迦はさらに、「足ることを知る者は、貧しくても実は豊かであり、どんなに財があっても、欲が多ければその人は貧しい」と言っています。

私たちが老いに向かうといっても、ある日いきなり老いていくわけではなく、それまで暮らしてきた住まいもあれば、暮らしの道具もある。衣食住のうち食はその都度求めなければならないでしょうが、衣や住は、いまあるもので十分足りているはずです。

いまあるもので「我慢する」のではなく、いまあるもので「充足する」。その切り換えができるかどうかが大切です。すなわち、老後を豊かなものにできるかどうかは、年金の額や資産の多少などよりも、その切り換えができるかどうかにかかっているといえるでしょう。「あれも欲しい、これも欲しい」という思いにとらわれているかぎり、永遠に充足は訪れません。

 

年金暮らしのお金の使い方も「選択と集中」

年金暮らしになっても、毎日の食べるものや光熱費、健康保険料や介護保険料に「シルバー割引」はないので、これらを差し引くと、たいていの人は「老後の人生をエンジョイする資金」はそう潤沢ではないでしょう。

資金が潤沢でない場合はどうするか? 企業経営ではよく「選択と集中」という言葉を使うそうです。あれもこれもと手を広げるのではなく、特定の領域に目標を絞り込み、そこに資金や人材などを集中的に投入する経営戦略です。この「選択と集中」の考え方は、私たちの「年金生活」にも採り入れるといいのではないでしょうか。

以前、中学時代の先輩と久しぶりに一杯やったとき、彼も同じようなことを話していました。先輩は男二人、女二人の四人きょうだい。みな平均的なサラリーマンや公務員の家庭で、ごく平均的な年金暮らしを送っているそうですが、それでいて「暮らしぶりが、それぞれ全然違うんだよ」と笑うのです。

いちばん年長の姉夫婦は「食い道楽」。年中、あちこち食べ歩きに行ったり、全国からおいしいものを取り寄せては、訪ねてくる子どもや孫といっしょに食べているのだそうです。

次の長男夫婦は「海外旅行マニア」。ある旅行会社の「旅のアウトレット」のチラシをまめにチェックしては、「え、そんなに安く行けたの?」というようなリーズナブルな費用であちこち海外に出かけているそうです。

ちなみに「旅のアウトレット」とは、催行決定となったツアーに残席がある場合、直前になって格安で残席を売り出す情報満載のチラシなのだとか。「会社に縛られているわけではないし、出発日が迫っていても、すぐに参加できるのが定年退職者の特権だよ」とのこと。

三番目の姉は「家」に凝り、センスのいいインテリアを調えたり、ガーデニングにひたすらお金と時間を捧げて、楽しそうに暮らしているそうです。

末弟である先輩は「芝居やオペラ公演」などには惜しげもなくお金を使い、毎年とまではいかないようですが、四国の金毘羅歌舞伎などにも遠路出かけて楽しんでいるといいます。「そのかわり......」と先輩の言葉は続きます。彼流に言えば、ふだんの暮らしは「粗衣粗食」主義だそうです。

食べるもの、着るものは贅沢しない......。粗衣粗食を言葉どおりに受け止めると、耐乏生活を送っているような印象になりますが、老後に食べるものは簡素なくらいのほうがむしろ健康的ですし、改まった外出の機会が減るので、着るものにかけるお金も自然に少なくなってきます。「粗衣粗食」は、自然な老後生活のあり方といえるかもしれません。

このきょうだいの例のように、老後は一般的に収入は減るものの、自分の好きなことにある程度のお金を使い、それで気持ちが満たされれば、ふだんは「粗衣粗食」でも精神的に貧しくなることはないでしょう。

私自身も小遣いは「選択と集中」でやりくりしています。私の場合、重点的に使うのは書籍代です。一日に何冊も買ってしまうことがよくあり、小遣いは本代だけでなくなりそう――。でも、本を読んでいると、財布が軽くなったことがまったく気にならないのです。

「選択と集中」。ビジネスマン時代に培ったノウハウやものの考え方は、老後の暮らしにもちゃんと役立つものなのですね。

 

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