これまでのシングルに比べて、ジャケットが大きく変わった。前作『十戒(1984)』の、鏡を横に不敵な眼差しで見つめるジャケットからその予兆はあったが、今回はさらに大変化だ。黄色いバック、緑の衣装、そして顔だけモノクロという、よくいえば先鋭的、逆の表現をすれば、とらえどころがない。
ただ、中森明菜というプロジェクトが、大きな世評を得ていく中で、「アイドル」を超えたアート=総合芸術に向かっていることだけは、雄弁に語っている。
※本稿は、スージー鈴木著『中森明菜の音楽 1982-1991』(辰巳出版)を一部抜粋・編集したものです。
井上陽水という「劇薬」の投入
担当プロモーター・田中良明は「(註:中森明菜と)意思の疎通が取れなくなってきた」「ギクシャクしてきた部分もありました」と語っている(書籍『中森明菜の真実』より)。
もう流れが変わってきている。中森明菜は昔の明菜ではない。そんな動向に拍車をかけたのが、井上陽水という「劇薬」の投入である。
劇薬とは適切な表現ではないかもしれないが、即効性は十分にある。強烈に効く。ただ副作用も大きい。彼女のシングルヒストリーの中では、加藤登紀子による『難破船』(87年)と並ぶ劇薬だったと思う。副作用の結果として、「意思の疎通」はさらに取りにくくなっただろう。
書籍『オマージュ〈賛歌〉 to 中森明菜』の島田雄三発言によれば、アルバム『POSSIBILITY』用に『夢の中へ』のような曲を依頼したら、この曲が上がってきたのだという。
そして、井上陽水本人がスタジオに来て、中森明菜と同じキーで「仮歌」を歌った。その仕上がりが格別で、「スタジオじゅうが陽水さんの世界に引き込まれ」(島田氏)、シングルカットが決まったらしい。
劇薬が調合された瞬間。思い出すのは、まだ駆け出しだった佐野元春が、沢田研二のアルバム『G.S.I LOVE YOU』(80年)に曲を提供したとき、佐野自身がスタジオで仮歌をノリノリで歌って、沢田研二がそれに感化されたというエピソードだ(80年代の沢田研二の歌い方には、佐野の影響があると私は見ている)。
また、劇薬とはいえ、歌詞は乱暴な作りではなく、また井上陽水一流のシュールなものでもなく、ちゃんと計算して書かれていると思う。というのは「不良少女は案外、純粋な恋愛物語を好む」という観点をしっかりと踏襲していることだ。何といっても「泣いたことがない」不良と「涙」という純粋性のシンボルの組み合わせなのだから。
逆にいえば、井上陽水ですらも、当時の中森明菜が持っていた不良性と純粋性が生み出すオーラに吸い寄せられたということか。
「倒置法歌謡」の当たり年だった84年
あと感心するのはタイトル「飾りじゃないのよ涙は」だ。言語学者の川添愛は、私との対談イベント(下北沢B&B「桑田佳祐の"ことば"を大解剖!」2022年7月8日)において、タイトルに使われている倒置法について、こう語った。
――倒置法は印象を強くするという効果があります。日本語の歌詞だと『飾りじゃないのよ涙は』とかがありますね。もしこれが「涙は飾りじゃないのよ」だったら、あそこまで売れていないと思うんです。(中略)『浪花節だよ人生は』も、「人生は浪花節だよ」だったら絶対にヒットしていなかったはずです。
ちなみに、細川たかし版の『浪花節だよ人生は』がヒットしたのも84年。「倒置法歌謡」の当たり年だったのかもしれない、この年は。さらに余談だが、歌詞の最後のほうに出てくる「ダイヤと違うの涙は」は、松田聖子『瞳はダイアモンド』(83年)の最後にある「涙はダイアモンド」への当てこすりという説もある。
萩田光雄の編曲も、劇薬の効果倍増に貢献している。84年型キラキラサウンドの中でシャッフルビートが軽快に跳ねている。「速い車にのっけられても」からのところで、暴走族のクラクションのような半音階が「パララパララ」と鳴るあたりは、『サザン・ウインド』における瀬尾一三による「人力『ロンリー・ハート』編曲」と共通する。そのいい意味での遊び心が、プロジェクト全体の潤滑油となっていたことがうかがえる。
で、中森明菜のボーカルについて。もちろん、この時期になると十分な安定感を持って歌っている。ただサビのところで奇妙なボーカルエフェクトがかかっているのが、彼女自身のサウンド志向の表れなのだろうが、あぁもったいないと思う。テレビやライブにおけるサビの表現力が抜群なのに対して。
84年から85年にかけての「井上陽水ブーム」
井上陽水に話を戻す。84年から85年にかけて、つまり80年代の前半と後半のブリッジとなったのは「井上陽水ブーム」だった。そのブームの登場人物の3曲。
歌手名『曲名』(発売日/売上枚数(万枚))
・井上陽水『いっそセレナーデ』(10月24日/35.3)
・安全地帯『恋の予感』(10月25日/43.6) ※井上陽水作詞
・中森明菜『飾りじゃないのよ涙は』(11月14日/62.5)
圧巻なのは、12月10日付のオリコン週間ランキングである。
1位 チェッカーズ『ジュリアに傷心』
2位 中森明菜『飾りじゃないのよ涙は』
3位 安全地帯『恋の予感』
4位 井上陽水『いっそセレナーデ』
5位 松田聖子『ハートのイヤリング』
2位から4位を井上陽水関連作品が占めている。また、1位は中森明菜プロジェクトで名を上げた「売野雅勇・芹澤廣明」という『少女A』コンビの作品、そして5位はライバル中のライバル、松田聖子という実に味わい深いラインナップだ。
84年が終わり、85年がやってくる。つまり、80年代後半がやってくる。中森明菜が手にするのは、20歳という年齢と、音楽界の女王の座である。