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生き方

「親に言えないな」小田和正さんが回想するオフコースのデビュー当時 かぐや姫の前座で受けた辛い体験

小田和正(アーティスト)

2024年07月05日 公開

オフコースの活動と大学院での研究の二足の草鞋から、音楽の道一本に絞った理由、プロデビュー後に経験した苦難...。70歳の節目に語られた、小田和正さんの素顔と音楽への思いを記録した書籍『時は待ってくれない』から一説をご紹介します。(聞き手:阿部渉)

※本稿は、小田和正著『時は待ってくれない』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
※写真はすべて同書からの転載です。

 

やめるにやめられなくなって続いた「オフコース」


大学在学中、鈴木さん、地主さんの二人とジ・オフ・コース(1972年にオフコースとなる)を結成し、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場。優勝をねらったものの、結果は惜しくも全国2位だった(優勝は赤い鳥)。

――高校卒業後、小田さんと地主さんは東北大学に進んで仙台へ行き、鈴木さんは東京工業大学に入学して東京に残ったわけですが、それでも一緒に練習していたそうですね。

聖光祭が楽しかったから、大学に入ってからも、またそういうことをやろうよって、なんとなく約束したんだね。

――仙台と東京ですから、大変ですよね?

大変だったね。だから、夏休みとかで仙台から帰ってきたときに集中して練習して、どこかのホールを借りてコンサートをやりましたね、毎年。

――その学生時代の総仕上げというのでしょうか、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(1969年)に出られたのは。

そんなふうに楽しくバンドはやってきたけれども、そのころはプロになろうなんていう気はさらさらなかったからね。だから、そろそろやめなくちゃいけないなとなったときに、じゃあ、どうやってやめようかと。

バンドとしてうまいと言われてたから、おれたちはどれほどうまいのかを確かめる意味で、そのコンテストに出て優勝して、それを記念にやめようって、そんなふうに話し合ったような気がする。もう優勝するって、決めてたんだね。

予選が3回くらいあったんだけど、全部勝ち抜いて、思ったとおりというか、予定どおりに全国大会までいった。

そしたら、赤い鳥というグループがいたんだよね。これがうまかったんだ。これはやばいなと思ったら、案の定、こてんぱんにやられて、結局、おれたちは2位だった。

赤い鳥の歌う「竹田の子守唄」を聞いたとき、あんなふうに、ああいう曲をやられたら、ちょっと太刀打ちできないなと思ったね。かっこいいという、その上のレベルの、何か心に届いてくる日本の歌だもんね。

これはもう、相当にショックだった。そしたら、何かスッキリしなくなっちゃったわけだ。2位でやめるのかっていうのがね。

――本来は、優勝して音楽をやめるつもりで......。

うん。まあ、優勝して本当にやめたかどうかはわからないけど、なにしろ2位ですから。あそこに負けたままやめるのかという気持ちで、やめるにやめられなくなって続いちゃったから、いつ、どこで、どうプロになったかという、はっきりしたものがないんだよね。

だから、「デビューはいつですか」ってよく聞かれるけど、おれたちのデビューはどこだろうって、いつもわからない。

 

「なんだかわかんないのは早く引っ込めよ」


1971年に地主さんが脱退したあと、鈴木さんと二人で活動するものの、コンサートでは「帰れ」「引っ込め」と言われることも。75年に「眠れぬ夜」がスマッシュヒットするまで苦難が続いた。

――コンテストの翌1970年、大学在学中に、当時流行していたフォーク調の曲「群衆の中で」でオフコースはプロデビューを果たしました。でも、デビュー直後に地主さんが脱退し、レコードの売り上げ、ライブでの活動、盛り上がりなども含めて、うまくいっていなかったと聞いています。

全然うまくいってなかったね。とんでもないことがいっぱいあった。でも、つらいという気持ちはなかったね。「ああ、つらいな、つらいな」って、苦節何年とかという気持ちはなくて、もっと音楽を一生懸命やらないと、もっとちゃんとできないとうけないんだと思ってた。すべては自分のせいだと、無理やりじゃなくて、つくづくそう思ったからね。

たとえば、演奏会場で「帰れ」とかよく言われたんだけど、お客さんから「帰れ」って言われるのは、あの当時、ちょっとしたファッションでもあったんだよね。1971年の中津川フォークジャンボリー(全日本フォークジャンボリー。1969年から71年にかけて、現在の岐阜県中津川市で3回開かれた)で、吉田拓郎とか岡林信康とかが、「帰れ、帰れ」ってコールされたのは有名な話だね。

でも、おれたちの場合はそうじゃなかった。かぐや姫と同じ事務所だったから、かぐや姫のコンサートで前座みたいなのをやらせてもらって、一緒に連れていってもらったりすることが多かったんだけど、お客さんはかぐや姫を早く見たいから、「なんだかわかんないのは早く引っ込めよ」と思っているわけです。オフコースなんて聞いたこともないし。

そして、あるとき、「じゃあ、最後の曲です」と言ったときに、ワーッて拍手がきたわけ。あっ、ちょっとうけたのかなと思ったら、それは、「これが最後で、やっと終わるのか」という拍手だった。

「ああ、そういう拍手じゃん」と思うとつらかったけど、それも受けとめた。ただ、これは親に見せたらかわいそうだなと思ったね。親はちゃんと歌って帰ってきてるんだろうと思うから、「どうだった?」って聞くわけさ。

どうだったって、「最後の曲ですって言ったら、拍手がきたよ」とは言えないから、それがつらかったね。親に、そんなこと言えないなという、その気持ちはよく覚えていますね。言えないな、この姿は見せたくないなというね。

 

音楽の道を選んだ理由


1971年4月、早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専攻修士課程に入学し建築学に取り組むも、1年間休学。休学中にオフコースの初アルバムをリリースするなど、プロ歌手と大学院生の"二刀流"を続けるなか、「音楽を離れることはできない」という思いでまとめあげた、伝説の修士論文。

――オフコースでプロデビューしたあと、小田さんは早稲田大学の大学院に進んで建築の研究に取り組むという、いわゆる二刀流が続くわけですね。

それは、もう言い訳というか、ちょっとでも長引かせて迷っていようっていう作戦だよね。

――迷っていたんですか。

決められなかったということだね。だからとりあえず、上に行って考えようと。それまでは東北大学という環境しか知らなかったから、東京の私立の環境に行ったときに、建築に対する考え方が変わるかもしれないし、どんな環境なのか、比較もしてみたかった。

それと、その隙に、音楽のほうへ行っちゃおうかなという気持ちもあったね。

――でも、プロとしてデビューしたという事実はあるわけですよね、厳然として。

「ぼくたちプロなんです」っていう、そのへんがとにかく曖昧だよね。

――そこから、しばらく悩みながらの時代が続くわけですね。そして、大学院に入って何年目ですか、修士論文を書かれたのは?

5年目ですね。

――ここで衝撃的な論文を出されたんですよね。これは伝説になっているようですが。

いやいや、伝説にはなっていないけど(笑)、「建築への訣別」という論文を書いたわけだ。もう建築はやめよう、あてもないのにって。ちょっと前にそのころのことを思い出したんだけど、あれを決断させたのは何だったろうといえば、何の根拠もなかったなと思ってね。

――でも、やっと決めたわけですよね、音楽でいくと。なぜ、音楽の道を選んだんですか。

とにかく音楽が好きだったっていう、それしか見当たらないんだよね。みんなでハモりはじめたときの、「あっ、いいよね、ハモるの」という気持ちとか。それで、音楽を離れることはできないなと思ったんだよ。でも、建築は離れられる。

ただ、建築は、まだそこまで一生懸命やっていないからだったんだと思う。実際に建てはじめたりしていれば、また違う面も見えてくるからね。もちろん、音楽もそうなんだけど。やっぱり、音楽は捨てられないなという消去法みたいな感じだったな。

――そして、試行錯誤も含め、日々を重ねていくうちに、オフコースとしての手応えを感じるようになったのは、どのあたりからでしょうか。

いちばん感じたのが、5人になったときだね。

 

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