松下幸之助が強く訴えかけた「維新」
2012年09月08日 公開 2022年12月08日 更新
《「松下幸之助.com」月刊松下幸之助 より》
日本と日本人に、当時の松下は何を求めたか、その主要論考・提言をご紹介します。
弊PHP研究所の創設者松下幸之助は、昭和40年代に「昭和維新」を唱えました。その後、大前研一氏が「平成維新」を発信し、いまは橋下氏が「大阪維新」を標榜しています。松下が「維新」を唱えはじめた昭和40年代初頭の日本は、高度経済成長期を謳歌しつつも、各方面で静かに危機が忍び寄っている、そんな時代でした。実際にその後、全共闘運動やオイルショックなど、精神面でも物質面でも、次第に目に見える危機が噴出しはじめます。
松下は、明治維新の志士たちを尊敬しており、明治100年にあたる昭和43年の7月、坂本龍馬らの霊を祭るべく、有志とともに霊山顕彰会を発足させ、初代会長に就任します(詳しくは霊山歴史館HPを)。そしてその頃、日本を蝕みつつあった危機を察知し、明治維新にも比すべき大転換期が訪れると予感、「昭和維新」という象徴的な言葉を度々使って、国民に警鐘を鳴らしはじめます。みずからの会社、つまり松下電器産業(現パナソニック)においても、創業50周年と明治100年を重ね合わせ、「維新」の必要性を社員に強く訴えかけ、共有していました。
ただ、この昭和40年代初期の松下の危機意識は、まだ「意識」であり「願い」の段階でした。本格的な開放経済体制への移行、資本自由化、そして40年代後半のオイルショックなど、世界経済での変化が国民生活にも直接影響を及ぼすようになった日本――それでもなかなか高まりを見せない国家全体の危機感に、松下は焦燥感をもっていたのでしょう。危機への処方箋、具体的政策論の研究をPHP研究の一環として進め、その成果は昭和50年のベストセラーとなった『崩れゆく日本をどう救うか』(PHP研究所刊)に凝縮されることになりました。「願い」を願いのままで終わらせなかったのです。
翻っていまの日本はというと、間違いなく停滞期にあり、危機の質に違いはありますが、危機に対する鈍感さに関していえばますます深刻化している感が否めません。松下の危機意識がほとばしる昭和43年3月の論考(内容一部)を、以下にご紹介します。ご一読ください。
泰平ムードのこのときに
今、日本と日本国民の繁栄にとって、いちばんの問題点は何かというと、私はそれは基本的にいって、お互い国民の精神というか、人心というものが昨今いささか安易に流れ、脆弱(ぜいじゃく)になりつつあるということではないかと思う。というのは、今日のわが国の世相というものを静かに眺めてみると、戦後ここまで一応の平和が続き、経済的にもある程度の繁栄を見てきたということもあって、社会全体に一つの安泰ムード、泰平ムードというものが広まり強まってきているように思われる。早い話が、町なかの遊戯場や繁華街は昼日なかから非常ににぎわっており、休日には行楽地に人々がどっとおしかける。もちろんお互いがこのように娯楽なり休養を求めるということは、心身の健康のため、あすのよりよき活動のために大いに必要なことではあろうが、しかし昨今はいささかこれにとらわれるというか、行きすぎた面も出てきているように思えるのである。
しかも一方、日々の仕事に対する考え方はどうかといえば、そこに自分の生きがいを見いだしつつ喜んで働くというよりは、生活のためレジャーを楽しむために、いわばやむなく働いているんだという傾向も、だんだんと強まってきているように思われる。そしてその結果、日本人本来の勤勉性というものを、知らず識らず失いつつあるという傾向も出てきているようである。
さらに、一般的な人々の考え方にしても、いわゆる自立心を欠くというか、何ごとにせよみずからの力、みずからの責任において事を行おうとするよりも、安易な気持ちで人を頼み、団体を頼み、政府を頼むなど、他に依存しようとするような姿も見受けられる。また同時に、みずからの当然果たすべき責任をも平気で他に転嫁するなどの風潮も、一部には生まれてきているように思う。これは個々人の場合ばかりでなく、会社商店や各種団体、あるいは国全体の場合を考えても、そういう姿がまま見られるように思うのである。(中略)
明治百年を迎えた今日のわが国は、今一つの大きな転換期に来ているというか、政治、経済をはじめ国全体が、今重大な岐路にさしかかっているように思えてならない。つまり今日は、明治維新ならぬ“昭和維新”というか“繁栄維新”ともいうべきものが実現されねばならぬときではあるまいか。そのことをお互いが正しく察知する必要がある。そしてそういう重大な岐路に立たされた以上は、全国民がそれぞれにこれまでの安易感なり依存心というものをふり捨てて、新たに真に国民共同の繁栄を生み出すためには何をなすべきかということを、真剣に考えあわねばならないと思うのである。またそういうことを、政治家をはじめ学者、評論家、マスコミ関係者など日本の指導層の方々が、もっと声を大にして積極的に訴えていただきたいと思う。そういう影響力のある方々の建設的な指導、鞭撻(べんたつ)の積み重ねが、結局は国を動かす原動力になってくるのではないかと思う。そのような立場にある方々が言うべきことを言わずしては、決して人心も改まらず、安泰ムードが健全な方向に向かうというようなことはありえないと思うのである。
イギリス衰退の歴史的教訓
そういう意味からも、私は、今日のイギリス衰退の姿を他山の石としなければならないと思う。イギリスはこのたび再び経済危機に陥り、やむなくポンド切下げを断行した(注:昭和42年末のこと)。その原因についてはいろいろ見方もあるだろうが、私は、イギリスという国は全体として伝統に固執した保守的傾向がきわめて強く、また極端にいえば、かつての植民地支配の上に知らず識らずのうちにあぐらをかいてきたその精神が、情勢が変化してきた今日においてもなおぬぐい去られず、古きよき時代の夢を見続けているような一面があったからではないかと思う。またそのほかに、いわゆる“揺り籠(かご)から墓場まで”といわれるほどの行き届いた社会保障制度によって国民が手厚く保護されすぎて、肝心の勤労精神までしだいに失いつつあるとか、かつてはきわめて旺盛(おうせい)であった進取的気象が今日ではまったく乏しくなっているとか、いろいろの原因が考えられるであろう。しかも一方では、そのような背景から生まれた深刻な経済危機について、政府なり経営者、労働組合の幹部、その他イギリスの指導者たちが一般国民に率直に訴えず、全国民が安泰ムードからぬけ出してこの経済国難に真剣に対処することの大切さを、力強く要望、鞭撻し続けてこなかったということが、イギリスの衰退に輪をかけたといっても過言ではないであろう。
もちろん、イギリスも今では経済復興のために、国家の指導者をはじめ心ある者が立ち上がって懸命に努力を続けているようであり、その努力は多としなければならないが、しかし、長年の惰性というものは、早急になんとかしろといっても、いかんともしがたいものがあるようだ。これはいうなれば、貴重な歴史的教訓といえるであろう。われわれは決してこのイギリスの轍(てつ)を踏んではならないと思う。ただ、そういうイギリスですらも、こと外交に関するかぎりは、いわゆる超党派外交で心を一つにしてやっている。その点はわが国の実情に即してよく考え直さなければならないが、ともかくもわれわれは、このイギリスの衰退の二の舞を演じないよう心を引き締めることが何よりも大事だと思う。
昨今のわが国には、この英国とやや相似た姿が現われてきているようにも思われる。この国情がさらに悪化し、やがてはイギリスよりも衰退するというようなことが決して起こらないとはいえない。むしろ大いにありうるという前提で、お互いが真剣に反省しあわねばならないと思うのである。
正しい意味の愛国心を
もともとお互い日本人は、長きにわたる歴史、伝統を通して脈々と培われてきた、すぐれた素質というか、伝統の精神をもっているのである。だから、もしお互い日本国民が自分たちのこの恵まれた素質なり伝統の精神というものを素直に自覚、認識し、思いを新たに国民共同の基盤となるような国是というか、国家の経営基本方針を打ち立て、それを基調に、互いに独立性を発揮して切(せっ)磋(さ)琢(たく)磨(ま)しつつ、日々の活動を進め、国家を運営していくならば、日本のこれからの安定と繁栄がさらにいちだんと高い姿で実現できるであろうし、世界の繁栄と平和にもますます貢献していくことができるであろう。
ただ、そのためには国民としてぜひとも考えねばならないことがある。それは何かというと、いわゆる正しい意味における愛国心というものを、もっと育て培っていかねばならないということである。いくら国民の目覚めが肝要であるといっても、それだけでは何か芯(しん)になるものが足りないように思う。そこに芯が入って初めて、国民の正しい自覚と活動とがさらに力強く生まれてくるのではないだろうか。
そして、その芯になるものは何かといえば、結局はわれわれの住んでいるこの社会、この国に対する愛着心であり、正しい意味における愛国心だと思うのである。(後略)
『PHP』昭和43年3月号「あたらしい日本・日本の繁栄譜38」(『松下幸之助発言集40』所収)
文中の写真は京都・霊山歴史館へ続く参道「維新の道」に建つ石碑(松下幸之助による揮毫)
★記事の全文については<特設サイト「松下幸之助.com」>をご覧ください。