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松下幸之助 日本初の「週休二日制」導入~使命としての「働き方改革」

渡邊祐介(PHP理念経営研究センター代表)

2018年12月25日 公開 2022年11月02日 更新

パナソニック創業者の松下幸之助は、日本で最初に「週五日制」(週休二日制)を導入しており、社員の働き方については先進的な考え方を持っていた。社員の厚生と生産性の向上の先に、幸之助が求めたものとは。
 

法律よりも早い改革

松下幸之助の経営者としての評価を考える時、「水道哲学」に代表される様々な経営哲学が取り沙汰されるが、実際に行なった経営改革として、日本で初めて「週五日制勤務」、すなわち週休二日制を導入したことは、より注目されるべきことかもしれない。

その週休二日制について見る前に、まず週休制の導入からたどってみたい。というのも、幸之助が週休制を導入した時の方針が、のちの週休二日制につながっているからである。

日本において一般的に週休制が導入され始めたのは、労働基準法(1947〈昭和22〉年法律第49号)の制定以降。その第35条「使用者は、労働者に対して、毎週少なくとも一回の休日を与えなければならない」という条文によってであった。

それに対し、幸之助が当時の松下電器産業(現パナソニック)で月二回休日制を週休制にしたのは、1936(昭和11)年のこと。つまり、法律より10年も先行して、働き方を変えていたのである。

幸之助は、この週休制の導入にあたって、次のように述べている。

「従業員の指導育成の面から深い配慮を払い、休日が増えたために、遊びに時を過ごし、健康を害したりすることのないように、月4回の休日のうち2回は休養に、2回は修養に当てるように望んでいる」(『松下電器 五十年の略史』1968年、松下電器産業刊)

のちに週休二日制の導入も、この考えに沿ったかたちで検討されることとなる。

週休二日制のそもそもの始まりは第二次大戦前、欧米の先進国においてであった。最も早かったのは、アメリカの自動車会社フォードで、1926年に週48時間労働から40時間労働に移行した。

当時のフォードは不況で生産を調整しなければならず、一方で安易な人員削減を避けたいという事情もあったことから、ある意味強いられた導入だったという。

一方、幸之助が週休二日制を積極的に採用したのは、週休制を導入した当時よりもいっそう、経営者として明確にその必要性を感じていたからだと考えられる。

戦後の復興を急ぐため、欧米先進企業の技術導入を必須とした幸之助は、終戦後の1951(昭和26)年、初めて欧米を視察している。その年はじめの経営方針発表会で表明された視察の意図は、次のようなものだった。

「アメリカに何が売れるか、アメリカから供給を受けるものは何か、また同じような製品をつくっていながら、向こうの社員は日本の10倍もの給料をもらっており、会社も日本と比べて大きな利益を上げているのはなぜか、といったことを調べてきたい」

滞米中、幸之助はゼネラルモーターズなど主要企業14、5社の工場を見学したほか、街の様子などにも広く目を向け、豊かさにおいて日本とは雲泥の差があることを実感した。豊かさの違いは、言い換えれば「生産性の違い」であろう。

翌年、オランダのフィリップス社との技術提携も成り、その後も順調に業容を拡大させた幸之助は、1960(昭和35)年の経営方針発表会の席上、社員に向けて「5年先(1965〈昭和40〉年)に週五日制を実施したい」と宣言した。
 

「週五日制は必然」の真意

その宣言から2年後の1962(昭和37)年、雑誌『放送朝日』(朝日放送刊)の企画で朝日放送副社長の平井常次郎氏と対談した際に、幸之助は準備中の「週五日制」導入の狙いを打ち明けている。「松下さんは一週労働五日制論者でしたね」という平井氏の言葉に、幸之助はこう答えた。

「五日制が望ましいというぼくの議論には前提があるんです。その前提を忘れて五日論者だといわれると迷惑します。ぼくはいつも思っているんですが、日本の産業もこれからますます生産性が向上してくるでしょう。どの工場も精巧な機械を配置して仕事をせねばならなくなる。そうなってくると労働者は勤務中1分1秒のすきもなく、8時間なら8時間を全精神を集中してやらねばならぬ。だから非常に疲労が出てくる。この疲労回復のために、一日余分に休養を要するだろう。そこで週五日にしなきゃいけない」

そして、道路の交差点で交通整理をしている巡査を例に出し、「あの仕事は続けて2時間もできない」と述べ、すべての仕事が同じように2時間すら持たないようになると予見している。

経理にしても製造にしても、技術的かつ合理的に仕事の仕方が発達すれば、よりいっそうの緻密さが必要となっていく。人間はそれに呼応するべく全神経を集中させなければならず、油断もすきも許されない状態になるだろう。

つまり、機械やシステムの改良によって高い生産性が実現されていくのに対して、人間は緻密さを保つだけの精神力を担保できず、休養のために休日を増やさざるをえない。幸之助は日本全体がそうした方向に労働の質が変化していくと見ていた。若い頃に肺尖カタルを患い、以後も頑健ではなかった幸之助ならではの見方かもしれない。

しかし幸之助は、ただ休みを増やすのではなく、「一日休養、一日教養」として週休二日のうちの一日の休日を教養の取得にあてることを社員に求めた。「週五日制」が社員にとって、産業人として、社会人としての向上に資するものとなることを強く望んだのである。

その五5後の実現を宣言して以来、一時は労働組合による反対、社員の誤解もあったが、実質的には4年目くらいから導入の狙いが理解されるようになり、労働組合の協力も進んだ。そして幸之助が約束した通り、1965年4月から、松下電器において「週五日制」が採用された。特に大きな問題も起こらなかったという。

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人間観と社会観から

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