いまや生活に欠かせなくなったさまざまなデジタルデバイスと人は、どのように付き合っていくべきでしょうか。「若き天才」と呼ばれ、起業家であり台湾のデジタル担当大臣にも抜擢された経歴を持つオードリー・タンが考える、人とデバイスとの理想的な付き合い方について解説します。
※本稿は『オードリー・タン 私はこう思考する』(かんき出版)より一部を抜粋編集したものです。
機械よりも人間の脳が得意なこと
人間の思考とは単に経験をなぞるだけのものではない。もちろん、人間にも思考抜きで即座に反応する機能はある。たとえば、人の顔を見た瞬間に誰だかわかるというところは、まさに機械学習と共通する。「考える間もなく一瞬で反応する」機能は機械にたとえられる。
しかし、人間の脳内にはさまざまな考えを置いておくスペースがあり、それらの考えを意識的に総合して判断することで、アイデアやインスピレーションを生み出している。その取捨選択は、それぞれの主観や意思を伴う経験に基づいて判断される。これはAIにはできないことであり、人間と機械が決定的に違う部分でもある。
人間が機械に任せるべきなのは、機械の得意分野である「瞬間的に判断する」部分だ。「じっくり思考する」部分については、引き続き人間の脳を使うほうが望ましい。
たとえば、自分の経験を誰かに話すとき、それは「相手にも同じような経験があるなら、互いに気持ちを通わせることができる」という意味になる。しかし、「私はこんな人間だ」とか「何学部出身だ」と自分を定義し、特定の範囲で線引きをしてしまったら、相手に交流の機会を与えないことになる。
機械と共に社会を作り上げるには
オードリーが愛読するSF小説の「カルチャー」シリーズでも、人類はどのように「役に立たない人」になるかという思考がなされている。作品内で、人類社会は「脱希少性社会」(人類の理想の未来社会。わずかな労働力で多くの財が得られるような経済)に入り、生活を維持するために必要な物資の生産は完全に自動化されている。
このような社会で人類は何に時間を使うのか?どうやってこの社会で「役に立たない人」になるか?いくつもの作品のなかでこのような問題が投げかけられ、読者に思考のヒントを与える。
今の私たちが生きる「希少性に価値がある社会」が、近い将来「脱希少性社会」へと変化しない保証はない。私たちの世代が多くの活動を機械に手渡してしまったとしたら、思い描くのはどんな未来だろうか。どうすれば機械と共に社会を作り上げていけるのだろう?オードリーがたびたび語る「共好(ゴンハオ)」の概念は、「カルチャー」シリーズからンスピレーションを受けている。
彼女が一貫して「共感」と「共創」を強調する理由がここにある。自分を優れた道具にするために学ぶことは、人類にとって最も価値のある経験とは言えない。深い思考を必要としない活動は、すでに機械の手に渡りつつある。だが人類は、集団で共に作り上げた知識をもとに新たな知識を探索していく技術を持っている。これは機械には決して真似のできないことだ。
オンラインとオフラインの使い分け
デジタルの時代、人はさまざまなデバイスとどのように付き合っていくべきか?オードリーの考えるデバイスのあるべき姿は、人と人の間にデバイスがあり、デバイスを通じてより多くの人とつながれることだ。つながるべき相手は機械ではなく人だ。オンラインゲームにはまり、現実世界を忘れて完全にバーチャルの世界に入り込むのと、ゲームを通じてより多くの友達と出会うのと、どちらがいいだろうか?
2020年のパンデミックにより学校が閉鎖され、急速に広がったオンライン授業がいい例だ。教室で授業を受けているとき、ぼんやりしていて先生の話を聞き逃したが、先生の目が怖くて隣の学生に聞けなかった。結局、授業についていけなくなり、さらにぼんやりするしかなかった。オンライン授業なら、わからなくなったら別のウインドウを開いてクラスメイトに質問することができ、後れをとることはない。
授業がオンラインになると、教師が「教室を監督したい」という欲求を捨てられさえすれば、学生にとっては学ぶ環境がより快適になる。リモートで数学の授業をする場合、学生に電卓の使用を禁ずることはできないが、その代わり単純計算に時間をとられることなく、根本的な数学の論理に重点を置けるようになる。授業中の計算など無意味なことだ。
リモート授業を進めるにあたっては、教師もまたデバイスとの付き合い方やプラグインの利用法などを改めて学ぶ必要がある。
リモート授業では学生が複数のウインドウを開いて同時に作業するのを禁止できない。教師はオンライン授業を盛り上げるために何ができるかを考える必要がある。
教室を監督することへの欲求が捨てられない教師は、「学生の姿が見えないと学生をコントロールできない」と焦ったり、「自分の映るウインドウは画面の端に追いやられていないか」と心配したりする。こうした欲求を捨てさえすれば、特に座学中心の教科においてリモート授業はとても自由で便利だ。学びの主導権は学生たちにあり、先生の話がわからなければ、チャットでクラスメイトに質問したり辞書を引いたりできる環境のほうが、かえって授業に集中できる。
旧来の授業形式にとらわれる必要はない
特に、知識の習得が中心の科目はオンライン学習の効果が高い。映像をくり返し確認できるため、それぞれの学習ペースに合わせて知識を吸収できる。
一方、実際に手や体を動かす必要のある事柄については、オンラインではなく集まって学ぶのが適している。農業理論の基礎的な知識を学ぶにはオンラインが適しているが、畑で肥料をまいたり種を植えたりするのは、畑に行って実践してみる必要がある。
最近の動画配信はますます便利になっているものの、同じ空間にいるという感覚を味わわせるのは難しい。技術がないわけではないが、一人1台のVR機器を所有させるには費用がかかるし、VR自体がまださほど普及していないからだ。
アジアの国々の多くは、いまだに旧来の受験教育を行っているが、台湾の「108課程綱要」では各校の課発会や教師個人に権限を与え、これまで「実験教育」(既存のカリキュラムにとらわれないオルタナティブ教育)で行われてきた方式を正規教育にも試験的に導入できる体制を整えた。オンライン授業のための教材や指導法の準備が進んでいたことで、ほかのアジア諸国に比べ、台湾の教師はパンデミック期にも冷静に対応できた。
オンライン教育では時間と空間の制限を受けることなく、教師と学生がつながることができる。5G時代には、ネットにつながってさえいればどんな場所も教室になる。
リアルな空間で「先生が講義し、学生が拝聴する」という旧来の授業形式にとらわれる必要はもはやない。いかにデバイスやプラグインを駆使して学生たちと双方向のコミュニケーションをとるかを考えることで、リモート学習がさらに意義のあるものとなる。
気軽に間違えられる空間を作る
オードリーはまた、「間違えてもいい」と思える空間を作ることも重要だと語る。生まれつき能力を持っている人はいない。
彼女が英語を学んだ経験を例に挙げると、まず、英語で考えざるを得ない環境に自分を置いた。オードリーが一時期、夢中になっていたカードゲーム「マジック:ザ・ギャザリング」にはまっていたが、ほとんどのカードが中国語に翻訳されていなかったため、英語で考えるほかなかった。ゲームのネットコミュニティではみんなが英語で会話していた。チャットルームでは誰でも自由に発言でき、英語の文法が合っているかどうかなど気にする者はいなかった。
学校で英語を学んだ多くの人が、時制・スペル・複数形・過去完了など、正しい英語を使わなくてはならないと考える。しかし現実には、ネイティブスピーカーも話しているときに文法など気にしていない。オードリーが各国を巡っていろいろな国の人とコミュニケーションをとるときも、havebeenとhasbeenの用法の違いなどどうでもよかった。たとえ間違っていても相手には十分通じた。
「この文型は正しいか、間違っているか」と考えてばかりいると、英語で会話をしているときも頭のなかでつねに正誤を判断している状態になるため、スムーズに言葉が出てこなくなる。だから、英語を話すときには正しさを求めないことにしている。間違っていたらいたで構わない。
デジタル時代には、学習は「一方的に受け取るもの」から「双方向に影響し合うもの」に変化しているのだ。