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生き方

「職場で損な役回りばかり...」 住職が語る、つまらない仕事からの抜け出し方

枡野俊明(曹洞宗徳雄山建功寺住職)

2025年02月03日 公開

仕事が退屈でうまくいかない原因はどこにあるのでしょうか。曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明さんは、仕事をつまらなくするのも、おもしろくするのも自分自身であると語ります。枡野さんのご著書『傷つきやすい人のための図太くなれる禅思考』より、仕事で損得勘定を手放すことのメリットを紹介します。

※本稿は、枡野俊明著『傷つきやすい人のための図太くなれる禅思考』より一部抜粋・編集したものです。

 

損得勘定にこだわると心が窮屈になる

何かをしようとするとき、人はどこかで損得勘定をはたらかせているものです。仕事にしても、その仕事をするのが得なのか損なのかを考えますし、人づきあいでも、その人とつきあったら得か損かが、必ず、頭の隅にあります。

損得など度外視するのが"立派"であることはわかっていても、これは人間の業のようなものですから、どうにもならないのです。しかし、それを超えていくことはできます。

たとえば、同僚と自分に上司から仕事が振り分けられたとします。同僚の仕事の内容は、確実に成果があがりそうだし、評価も得られそうなもの。それに対して自分に与えられた仕事は、どちらかといえば裏方的で、評価の対象にはなりそうにないものだったら、こう考えるかもしれません。

「なんだかワリをくっちゃったな。仕事が逆だったらよかったのに......」

そこには同僚の仕事は得、自分の仕事は損、という勘定がはたらいているわけです。問題はそこからです。

得をした同僚を羨み、損をした自分を嘆く、といったふうに損得にこだわり続けていたら、どんな仕事ぶりになるかは明らかです。損だと思っている仕事に熱が入るわけもありませんから、ちゃらんぽらんとまではいいませんが、いわゆる、やっつけ仕事になるでしょう。また、同僚に対して敗北感を持ったり、自分が卑屈になったりするかもしれない。

しかし、損に思えようが、その仕事が自分にまわってきたのは「縁」なのです。禅ではその縁を何よりも大切にします。いただいた縁は活かしきる。それが禅の考え方です。仕事でいえば、縁を活かしきるとは、その仕事にあらんかぎりの力を尽くすということでしょう。そうすれば、損も得もなくなります。損得を超えられるといってもいいでしょう。

損だということが頭にあるから、仕事がつまらなく思えたり、おもしろくないと感じたりするのです。幕末に活躍した長州藩士で、奇兵隊を組織した高杉晋作が残したこんな歌があります。

「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」

これについては、前半を高杉が詠み、「すみなすものは 心なりけり」という後半部分は、病床にあった高杉の看病にあたっていた女流歌人、野の村望東尼が詠んだとされています。

その意味は、おもしろいことが何ひとつない世の中だって、心の在り様(持ち方)ひとつでおもしろく生きていくことができるということですね。仕事につまらないも、おもしろいもないのです。つまらなくしているのも自分、おもしろくするのも自分の心なのです。

いただいた縁を活かしきる。そのことだけを考えませんか? 力を尽くしていれば、その仕事に楽しさも、おもしろさも、見いだせないわけがありません。周囲にも楽しそうに仕事をしている人、おもしろそうに仕事をしている人がいるのではないでしょうか。それは、やっているのが楽しい仕事、おもしろい仕事だからではありません。その人が精いっぱい力を尽くしているから、そう見えるのです。

人づきあいも同じです。縁をいただいて出会ったその人に、誠意を尽くしていく。そこに心の交流が生まれ、素敵な関係が築かれるのです。損得勘定がはたらいた関係とはまるで別次元の繋がりといえるでしょう。損得にこだわると、心は窮屈になります。ですから、同僚の仕事ぶりがいちいち気になったり、その評価に気をもんだりするようになるのです。

しかし、損得を超えたら、心は伸びやかに、しなやかになります。仕事でも人づきあいでも、おおらかにできるようになるのです。ぜひ、縁を活かしきってください。

 

自分を実力以上に見せようとしない

「怒りをためないコツ」は、必要以上に頑張りすぎないで、自分のペースでナチュラルに生きることです。それらをいくつか述べていきたいと思います。

引き受けた仕事や役割には、必ず、責任がついてまわります。自分の責任でそれを仕上げたり、まっとうしたりしなければならないわけです。ただし、責任ということにも範囲があるのではないでしょうか。たとえば、上司から仕事を命じられて引き受けたとします。仕事にはいろいろな要素がありますから、なかには「ここは得意じゃないな」という部分があるかもしれません。

企画書をまとめるのは得意だけれど、図や表をビジュアル化するのは苦手だ、といったケースですね。しかし、真面目な人は、「引き受けたからには全部自分の責任でやらなければ......」と考えてしまったりするわけです。責任の範囲を広くとるのです。責任に敏感といっていいかもしれません。

その結果、苦手なビジュアル化に手を焼き、そこで多くの時間を費やすことにもなる。指示された期日に間に合わないことだって考えられなくはありません。間に合わなければ、上司から叱責されるでしょうし、責任をはたせなかった自分を責めることにもなります。さらには、仕事を引き受けることに対して臆病になる。どんどん萎縮していくのです。

引き受けた仕事の責任が「10」だとすれば、なにもそのすべてを一人で背負い込むことはないのです。そのうちの「7」については自分の得意とする部分だし、責任はまちがいなくとれるというのであれば、残りの「3」はそれが得意な人の手を借りて、その人の責任で仕上げてもらえばいいではないですか。

仕事を引き受けるときに、上司に、「わたしはビジュアル化が苦手なものですから、そこは〇○さんにお手伝いしていただこうと思います。それでよろしいですか?」といってしまえばすむことです。少しばかり図太い神経が必要ですが、できないことはできない、苦手なものは苦手、と認めることは、けっして恥ずかしいことではありません。ただ、それができない人がいるのもわかります。

若い頃はとくにその傾向が強いようですが、人には「できる人に見られたい」「凄い人と思われたい」という潜在的な願望があります。その願望についつい唆されてしまうわけです。自分を実力以上に見せようとする。

しかし、現実的に実力以上の仕事はできませんから、結果はおのずから明らかです。期日に間に合わない、完成度が低い、ミスが散見される......といった不備が露呈することになります。

自分の本当の実力ときちんと向き合う勇気を持ちませんか? しっかり目を開き、正味の自分を見つめましょう。上司は部下の実力を見通しているものです。得意、不得意ということも把握しているでしょう。

ですから、一切合切を背負い込んでいる部下をこんな目で見ているはずです。

「おいおい、無理するなよ。そこは同僚のあいつに頼めばいいじゃないか。人にまかせられるのも実力のうちだぞ」

心ある上司とはそういう存在です。

ちなみに、わたし自身も「できないことはできない」と図太く割り切っています。たとえば、英語。海外で仕事をすることも多くなって、英語でコミュニケーションはなんとかとれるようになっています。しかし、英語の文書となるとからっきし苦手。簡単なメールの返信でさえ、「この単語、どんなスペルだったかな?」というレベルです。

そこで、"書く英語"はそれが得意なスタッフにお願いしています。それで仕事はスムーズに運ぶのです。正しく実力を見きわめれば、責任範囲を見誤ることはありません。

 

著者紹介

枡野俊明 (ますの・しゅんみょう)

曹洞宗徳雄山建功寺住職

1953年、神奈川県生まれ。曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学名誉教授。大学卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行い、国内外から高い評価を得る。芸術選奨文部大臣新人賞を庭園デザイナーとして初受賞。ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章を受章。また、2006年「ニューズウィーク」誌日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出される。近年は執筆や講演活動も積極的に行う。

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