(写真提供:やなせスタジオ)
国民的な人気キャラクターと言っても過言ではないアンパンマン。その作者であるやなせたかしさんの1995年に刊行されたエッセーが『ボクと、正義と、アンパンマン』と改題の上で復刊された。
1969年に初めて登場したと言われるアンパンマンが、アニメ化されたのは1988年。やなせさんは69歳。現在に至り30年以上にわたり子どもたちに愛されるキャラクターの生みの親が、あの頃に何を感じていたのか? 同書の一節を紹介する。
※本稿はやなせたかし著『ボクと、正義と、アンパンマン』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです。
血の色は紅い
ボクが「手のひらを太陽に」という歌をつくったのは、もうかなり前のことになります。その頃、漫画家としてはまずまずの収入を得ていたものの、どうしても自分の仕事が気に入りませんでした。時流にあわせた娯楽漫画がうまくかけず、すっかり行きづまってしまっていましたが家族にはひと言も話しませんでした。漫画家という職業は完全に孤独です。自分以外には誰に話したって理解できるはずがありません。冬だったので、冷たい手を電気スタンドの電球にかざしてあたためていました。
その時、指の間の血の色が真紅に透けて見えたのです。自分はいまこんなに絶望しているのに、血はせっせと紅く熱く流れている。
それから無理に時流にあわせた流行を追う漫画はきっぱりとかかないことにしたのです。というよりも、断念して自分の世界だけにしぼったのです。収入が少なくても、自分の好きなものだけかくことにしました。そして「手のひらを太陽に」という歌をつくったのです。
まさか、その歌が小学校の教科書に載ったり、現在まで歌いつがれていく歌になろうなどとはその時に夢にも思わなかったのに……。そしていつのまにか、ボクは子どものための仕事をするようになりました。絵本作家として、また童話作家として、『詩とメルヘン』という本を創刊して、自分の好きなことだけをしました。
どの仕事にも共通しているのは、自分の仕事の中に精神的な毒を入れないということです。
ボクはあまり教訓的なことは好きではありません。お話はできるだけ面白く娯楽的であるほうがいいと思っています。しかし、面白さのために毒はいれません。なぜなら、精神的栄養になる子どもの時の絵本や音楽は身体を流れる血液と同じだからです。
ボクが立ち直れたのも、自分の血が失意の時も紅く澄んでいたせいだと思います。物理的な公害よりも精神的な公害のほうが実はもっと危険なのです。
九州の小学校の先生から届いた手紙
ボクは、1年に約20冊の絵本をかいています。
九州の小学校で知的障がいの子どものクラスを担当している先生から手紙がきました。
「私のクラスに絶対本を読まない子どもがいます。ところがアンパンマンだけは喜んで見ます。そのうちにびっくりしたことに、字をおぼえて自分で読めるようになりました。うれしくて私は涙がでました」
この手紙を読んでボクも涙をこぼしました。そして自分の手もとにある絵本を全部ひとまとめにして先生に贈りました。
子どものための歌も約二十年間、一カ月に一曲ずつつくりつづけました。ボクも作曲のいずみたくも、全くの無料でせっせとつくりました。どこから頼まれたわけでもありませんが、貯金をするつもりでつくりつづけたので誰も認めるひとはいませんが、いつのまにか利子がつきます。
ボクは才能がうすいから、さしたることはできません。賞にも、あまり縁がありません。でも、全力をつくしてひとを喜ばせる仕事をしたい、と思っています。
しかし、いずみたくが死んでしまったので現在は子どもの歌をつくる仕事はアンパンマンの中の歌以外は中断しています。残念ですが仕方がありません。誰とでも仕事をするというほどボクは器用ではありませんので、この仕事はいずみたくの死で終ったと思っています。