孟子は、『孟子』七篇において理想的なリーダー像を提示した。人は絶えざる修養を重ね、徳に磨きをかけることが大切だと語り、組織のリーダーには「人の上に立つ者は、まず自分を磨け!」と主張する。中国文学者の守屋洋氏が、孟子の教えを紹介する。
※本稿は、守屋洋著『[新訳]孟子 「孔子の正統な後継者」が唱えた理想的なリーダーの心得』(PHP研究所)より、内容を一部を抜粋・編集したものです。
リーダーに必要な4つの資質
人をあわれむ心は、仁の芽生えである。悪を恥じる心は、義の芽生えである。人に譲る心は、礼の芽生えである。是非を見分ける心は、智の芽生えである。
◆惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。(公孫丑篇)◆
ここでは儒教の重視する4つの徳、すなわち、仁、義、礼、智がとりあげられている。
まず「仁」であるが、これは思いやりの心、あるいは心の温かさを指している。また、「義」とは人として踏み行なうべき正しい道、「礼」とは社会生活を円滑にする規範、「智」とは探い読みのできる資質である。
孟子によれば、これらの徳は人間ならだれでも生まれつきの素質としてそなえており、その現われが、惻隠の心や羞悪の心であり、辞譲の心や是非の心なのだという。
ただし、せっかくの素質も放っておくと、もろもろの欲望にかき消されて立ち枯れになってしまう。大きく育てていくためには、絶えざる修養が必要になる。孟子によれば、それが人間に課せられた課題なのだという。
これらの徳が生まれつきの素質であるかどうかについては、異論もあるかもしれない。だが、身につけていくには絶えざる修養が必要になることには変わりがない。私どももこれらの徳に磨きをかけて、社会人としての信頼性を高めていこう。
まず自分を正せ
自分が曲がったことをして人を正した例は、いまだかつてなかった。
◆己を枉ぐる者にして、未だ能く人を直くする者はあらざるなり。 (滕文公篇)◆
人を正そうとするなら、まず自分を正せというのである。これはとくに、上に立つ者の心得の条なのだという。
孔子も『論語』のなかで、こう語っている。
「その身正しければ、令せずして行なわる。その身正しからざれば、令すと雖 〈いえど〉 も従わず」
為政者が自分の姿勢を正しくすれば、命令するまでもなく実行される。自分の姿勢が間違っていると、どんなに命令しても人はついてこないのだという。
孔子はさらに、こうも語っている。
「苟もその身を正さば、政に従うに於いて何かあらん。その身を正す能わざれば、人を正すを如何せん」
自分の姿勢を正すことができれば、政治をしていくうえで、なにもむずかしいことはない。自分の姿勢を正すことができなかったら、人を導くことはできないのだという。
孟子がここでいわんとしているのも、同じ趣旨であることはいうまでもない。政治家だけではない、組織のリーダーにしても、つねに自分を厳しく律する必要がある。そうでないと、部下に何をいっても説得力がなくなってしまう。自分には厳しすぎるくらいで、ちょうどよいのかもしれない。
「至誠」の心がほしい
こちらが「至誠」の心で接すれば、どんな相手でも動かすことができる。
◆至誠にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり。 (離婁篇)◆
「至誠」ということばも、近ごろめったに聞かれなくなった。死語になりつつあるのかもしれない。念のため手元の辞書を引いてみると、「きわめて誠実なこと、まごころ」とある。
この「至誠」をもって対応すれば、どんな相手でも動かすことができるのだという。これもまた孟子の信念であった。
たしかに、こちらに「至誠」が欠けていたのでは、周りの信頼もえられないし、人を動かすこともできない。現代のような時代だからこそ、「至誠」の意義がもっと見直されていいのではないか。
むろん、いつの時代でも現実は厳しい。そういうなかを生き抜いていくためには、それなりの知恵も必要になるし、駆け引きも身につけておく必要がある。そうでないと、ただの役立たずになってしまう。
ただし、駆け引きだけ達者になっても、信頼はえられない。できればその根底に至誠の裏付けがほしいのである。どんな苦境に陥っても、一片の「至誠」の心を失わないようにしたい。