生きていくことに漠然とした不安があり、どういう日々を過ごせばいいか分からない――。そんなふうに感じたことはありませんか? そうした方に、曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明さんは、いったんそれまでの生活をリセットし、「十重禁戒」を心にとめ、生き方の指針としてみることを勧めています。
「十重禁戒」は、「三帰戒」「三聚浄戒」とともに、曹洞宗の葬儀、つまり授戒の儀で授ける戒律です。本稿では、その10条のうちの5つの戒律を、日常でどのように活かしていくかについて紹介します。
※本稿は、枡野俊明著『人生は、瞬間の積み重ね』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
不妄語戒(ふもうごかい):うそ、偽りをいいません
うそも偽りも、はじめは小さなものであることが多いのだと思います。しかし、小さなうそを糊塗するために、さらにうそを重ねなければならなくなる。その連鎖で、結局、取り返しがつかない事態になるのです。人間関係でも、いちばん避けなければならないのが、うそ、偽りです。
人間関係の土台は信頼でしょう。おたがいに相手が信頼できるから、いい人間関係が築かれ、また、保たれるのです。信頼を失わせる元凶がうそ。長い時間をかけて培ってきた信頼も、たった一度のうそが壊してしまうということが珍しくありません。そのことはあらためて肝に銘じておく必要があります。
人間関係を築く際、もっとも大切なことは、誠実であることだと思います。つまり、うそ、偽りで、自分を飾り立てたり、見栄をはったりしないことですね。現役時代のキャリアについて、盛ってしまったりするのが、"自己粉飾"の典型的なケースといえるかもしれません。
うそ、偽りは自分を窮屈にしたり、苦しくしたりするだけです。「素の自分」でいるのが、いちばん心が軽く、清々しいのです。もちろん、いい人間関係の原点もそこにあります。
不酤酒戒(ふこしゅかい):酒に溺れるようなことはしません
わたしは日常ほとんどお酒をたしなみませんが、「酒は百薬の長」という言葉があるように、適度に飲むのであれば、健康にもいいようですし、人とのコミュニケーションを円滑にしたり、深めたりする効果もあるのだと思います。
通常、禅寺の山門の前に「不許葷酒(くんしゅ)入山門」という文言を書いた結界石が立てられています。お酒や香りの強い食べものは、山門に入ることを許さない、ということです。
しかし、禅僧もさるもの、お酒のことを「般若湯」「智水」などと呼んで、山門内に持ち込んでいたようです。般若は智慧のことです。すなわち、智慧のお湯や水なら、いただいてもかまわんだろう、とずいぶん"身勝手"な、また、都合のよい解釈をしていたのです。
お酒好きな人は、ともすると、"適度"のレベルを超えがちです。もちろん、たまに友人、知人と楽しい酒宴を催し、「ちょっと、飲み過ぎたかな」ということなら、まあ、許容範囲だと思いますが、自宅であまり飲むのは、身体も、心も、壊すことにつながります。
時間のルールを決めたらいかがでしょう。「夕食までは飲まない」「二時間で盃(グラス)を置く」......といったものがそれ。最初は少々物足りなくても、ルールを守っていると、それが習慣になって、いつでも適度な飲み方ができるようになるのではないかと思います。
いい古された表現ですが、やはり、「酒は飲んでも、飲まれるな」が、お酒とのつきあい方の鉄則です。
不説過戒(ふせっかかい):人の過ちを責め立てません
「自分のことは棚に上げて......」という言葉があります。他人の過ちはよく見えるいっぽうで、自分の過ちは、案外、見えない、気づかない、のが人というものなのでしょう。
そこで、他人の過ちを責め立てることになったりする。しかし、過ちをおかさない人、失敗しない人などいないのです。「ブーメラン」といういい方がありますが、他人を責め立てたら、同じようなことで、今度は自分が責められる、といったケースは、少なくないのではないでしょうか。
たとえば、夫婦関係。とくに一方が定年退職するなどして、環境が変わると、関係性も変わってくることがあります。相手のすること、なすことが、嫌でも目につくようになってくるのです。
「今日は十時に出かけるって、昨日の晩からいっていたじゃないか。準備にいつまでかかっているんだ!」
たしかに、準備が遅れたのは相手の"過ち"かもしれません。しかし、声を荒らげて責め立てるほどのことでしょうか。故意に準備を遅らせていることはないはずですし、ゆったりお茶でも飲んで待っていればすむことではありませんか。
責めたことで、二人そろってのその日の外出が、どんなものになるかは明らかです。気まずい雰囲気がつづいて、ロクに言葉も交わさない、ということにもなりかねませんね。それでは、買いものをしても、食事をしても、ちっとも楽しくない。すべての原因は、些細な過ちを責めたことにあるのです。
おたがいをおおらかな目で見ていく。それが、身近な人間関係でいちばん大事なポイントかもしれません。
不自讃毀佗(他)戒(ふじさんきたかい):みずからを誇り、他人をけなすことはしません
人がいちばん不快になったり、辟易したりするのは、他人が語る自慢話ではないでしょうか。周囲はうんざりしているのに、語っている本人だけが悦に入っている、というのがその基本型です。
それまでの人生で自分があげた成果や実績、手にした肩書きや地位を誇りに思うのは、少しもかまわないのです。誇りは生きていくうえで糧にも、勇気にもなるでしょう。しかし、それをわざわざ他人様に聞かせることはないのです。
「○○商事の役員をしておりましてね......」
「ニューヨークの現地法人のトップをつとめておりまして......」
周囲が眉をひそめているのがわかりませんか?
「あ〜あ、また、また、〇〇さんの十八番が始まっちゃったよ。これは長くなるぞ。まいったな」
それが聞かされる側の本音でしょう。そんなことがたび重なれば、敬遠されることにもなります。人生に潤いを与えてくれ、彩りを添えてくれるのは、なんといっても、人とのつながりです。それをみずから手放すなんて、もったいないですし、愚かなことだと思うのです。
栄光は秘めてこそ輝き、語るほどに色褪せる。そのことをしっかり嚙みしめておきましょう。他人を貶めるような言動はもってのほか、論外です。
そうすることで自分が上に位置していると感じたいのかもしれませんが、その"思惑"は、まず、奏功することはありません。
自分の了見の狭さ、度量のなさを、みずからあからさまにしているだけ。そこに気づいてくださいね。
不慳法財戒(ふけんほうざいかい):ものでも、心でも、施すことを惜しみません
お寺や神社にお参りするときには、お賽銭を投げるのが日本人の慣例です。禅ではそれを「喜捨」といいます。文字どおり、喜んで、捨てる。お金を手放すのに、なぜ喜ぶのか、不思議に思われるかもしれませんね。説明しましょう。
お金は執着の対象です。それを手放すことは、執着を捨てる、執着から離れる、ということなのです。人を迷わせる煩悩の最たるものである執着がなくなるわけですから、その行為は喜びなのです。
また、自分のものを手放すことは、失うことではありません。めぐりめぐって、それが何倍にもなって戻ってくる。それが禅の考え方です。
「世の中のため」「人のため」ということを課題に、あるいは、行動原理にしてみてはいかがでしょう。
喜捨ということでいえば、募金や寄付をするのもいいでしょうし、行動(身体)を"施す"なら、ボランティア活動への参加などがそれにあたるでしょう。友人の悩みを親身になって聞く、窮地に立っている知人にアドバイスを送る、といったことは、心の施しといえるでしょう。これを仏教では「布施行(ふせぎょう)」といいます。
どんなかたちであれ、施すことは自分の喜びになります。悩んでいた友人が、晴れやかな顔になって、「聞いてくれてほんとうにありがとう。気持ちがずっとラクになったよ」。そんなふうに感謝してくれたら、心からうれしくなりませんか? 相手から喜びをいただいた気がしないでしょうか。
世の中のため、人のために、なにかができるはずです。どうぞ惜しまず、施しましょう。