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碁と電卓に夢中の5歳児に家族は…五冠棋士・一力遼を育てた決断とは?

田中章(共同通信客員論説委員)

2026年04月18日 公開

新聞記者との二刀流という異色のキャリアを歩みながら、五冠を達成した囲碁棋士・一力遼(いちりき りょう)五冠。その類まれなる才能は、どのように磨かれていったのだろうか。一力氏の躍進を見続けてきた田中章氏の著書より、その足跡を振り返る。

※本稿は、田中章著『二刀流の棋士 一力遼』(日本棋院)より一部抜粋・編集したものです。

 

7歳ですでに光っていた一力遼の才能

2004年12月、仙台市の河北新報社本社の会長室で一力一夫会長から最近の新聞界の話を聞いていた。ネットを使って記事を発信することなどが話題になった。一段落したところで「会長、今、お孫さんとは何子で打っているのですか」と聞いた。

孫とは一力雅彦副社長の長男、一力遼だ。以前、「孫と碁を打っている。5子置かせているが、強くなっている」と話していた。一力会長は囲碁を趣味としていて高段者だ。

一力会長はすぐ返事をしなかった。やや間があいて「最近、打っていない」と言う。当然「どうしてなのですか」と尋ねる。
「孫を相手に黒石を持つわけにはいかんだろう」

少しはにかみながら79歳の祖父が明かした。当時、一力は7歳、小学1年だった。9子置かせて始めた祖父と孫の対局が、早くも白黒逆転したというのだから驚いた。
「それではもう五、六段になっているのですか」
「打ってないから分からないが、それくらいあるかもしれない」

興味がわき出した。囲碁を覚え始めてまだ2年だという。そんなに早く強くなれるのだろうか。

私は社会人になってから囲碁を覚えた。「これは面白い」と思い、初心者向けの囲碁の本を買ってきて勉強した。やがて大竹英雄名誉碁聖の「大竹囲碁講座」5巻本を購入、全巻読み終えたころやっと初段ぐらいになった。

小学1年で五、六段とは。翌年2月、仙台市で開かれたボンド杯争奪全日本こども囲碁チャンピオン戦の東北大会に出場した一力を見に行った。最上級のクラスで打っていた。

そっと近づいて碁盤をのぞき込むと、一力の白番。右下に星からケイマにシマッた黒に白が手をつけたまま放置してある。続けて打つとコウになる形。やがて中央で戦いが始まった。そして放置してあった右下隅を動きだし、コウにする。中央の戦いをコウ材として使い、あっという間に黒の大石を取ってしまった。「小学1年生が何という高等戦術を使うのか」とただ感心するばかりだった。

 

祖母の後押しでプロの世界を目指す

漢字の「遼」は遼遠などと使われるように「はるか遠い」という意味だ。広い視野と心を持ってほしいという両親の願いから名付けられた。字の構成要素に「『日(太陽)』『辶(道)』『大』『小』が入っているのが気に入っています」と母親の久美。

5歳の時、碁を覚えた。「オセロなどいくつか遊んでいたゲームの一つだった」が、すぐに碁が一番のお気に入りになった。もう一つのお気に入りは電卓。久美は「とにかく電卓さえ持たせておけばおとなしい子でした」と懐かしむ。電卓をたたいて数字で遊ぶ。次々に変化する数字に興味を持つ。ファンタジーの世界と認識したのであろうか。数字に対する特異な才能はこのころから芽生えたようだ。

子どもの時、母親の買い物について行くと、買った商品の値段を見て暗算し、レジに並ぶ前に「合計で○○○円だよ」と教えていた。まさしく「歩くレジ」である。今でも走っている車を見ると、プレートナンバーの四つの数字から「(足し算、引き算、割り算などをして)10になる組み合わせを考えます」と言う。それを一瞬でする。

囲碁を覚えるとたちまち虜になった。仙台駅近くにある「国際囲碁大学囲碁教室」に通いだす。祖父と打つ。自宅に配達される河北新報の囲碁観戦記を見て石を並べる。夢中になってやれば、強くならないはずはない。

この囲碁教室に2カ月に1回、宋光復九段が指導に来ていた。一力が6歳の時、初めて6子で指導碁を打った。「終わった後、検討をしようとしたら、遼はすぐさま石を片付け、いなくなってしまった。後で聞いたらトイレで泣いていたようです」と宋。教室の指導者が日ごろ「泣くのなら教室ではなくトイレで泣け」と言っていた。

「4カ月後、5子で打ったら、子どもですからパンパンとノータムで打つのですが、手どころでは手を止めて考える。感じが随分違っていました。局後にアドバイスをすると、こちらの目をちゃんと見て聞いている。『この子は強くなる』と思いました」

プロ棋士の指導碁は通常、初段で9子置く。5子だと五段格となる。祖父との手合割が白黒逆転したのも無理はない。

小学2年の時、宋が院生になることを勧める。だが、それは大きな家庭問題だった。祖父の一夫は当初「なにもプロになる必要はない。社長たちの間で『あんた碁が強いね』と言われるぐらいでいいのだ」と言っていた。

背中を押したのが祖母の博子だった。「才能があるのなら伸ばしてやりなさい」。博子は日銀職員だった時、日銀担当記者の一夫と出会った。日銀当時、才気活発な才女として有名だった。結婚後に住んだ仙台では赤いスポーツカーを乗り回していた。

すごい記憶力の持ち主で、初対面の簡単なあいさつをした程度なのに半年後に出会ったら「あーら、田中さん、お元気?」と話しかけられ、面食らった。私の顔も名前もとうに忘れているだろうと思っていた。一力の抜群の記憶力は祖母ゆずりだ。

祖母の力強い後押しもあって小学2年で院生になる。院生になるにはアマチュア六段相当の実力が必要だ。一夫は「相撲でいえばふんどし担ぎだな」と笑っていた。もう対局するには自分が何子か置かなくてはならない孫の成長を楽しみにする姿だった。一夫は日本相撲協会の横綱審議委員会の委員長に就任したこともある相撲通。かつては幕下以下の力士を「ふんどし担ぎ」と言っていたが、今では「若い衆」と呼び、死語になりつつある。ようするに徒弟制度の中でいう「したっぱ」である。

著者紹介

田中章(たなか・あきら)

共同通信客員論説委員

1947年、北海道士別市生まれ。京都大学卒業、1972年、共同通信社入社、社会部長、仙台支社長、論説副委員長。現在、共同通信客員論説委員、河北新報社囲碁記者。著書に「人間・思想・政策 土井たか子」、共著に「沈黙のファイル」「東京地検特捜部」など。

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