結果が出ない焦り、ジンクスへのとらわれ、完璧を求める自分との葛藤――。勝負の世界で何度も壁にぶつかってきたプロ囲碁棋士の一力遼氏が、メンタルトレーニングを通して見出した「自分の力を最大限に引き出す方法」とは。
禅の言葉「而今」に学ぶ心の整え方から、小さな成功体験を重ねる実践法まで。囲碁だけでなく、仕事や人生にも通じるセルフマネジメントの極意を語ります。
※本稿は『AI時代の最善手』(PHP研究所)より一部を抜粋・再構成したものです。
自分の力を最大限に引き出すために
対局で必要なのは研ぎ澄まされた思考力ですが、どんなに技術があっても、詰碁が得意でも、研究を重ねても、本番に活かされないと意味がありません。
ここからお話しするのは、長い迷路に迷い込み、結果が出ない苦しい時期を過ごし、メントレなどを通してたどり着いた「自分の力を最大限に引き出すためにやってみたこと」です。
①座右の銘「而今」
②ジンクスからの脱却
③「完璧にできない自分」を認めてあげる
④小さい成功体験(スモールステップ)の積み重ね
⑤不安を取り除くために
⑥オンとオフの切り替え
⑦日々のルーティン
⑧姿勢の改善
⑨体の状態を整え、五感を働かせる
囲碁だけではなく、勉強や仕事に行き詰まった時、人間関係に疲れた時、思うようにいかなくて焦っている時――いろいろな場面に応用できるのではないかと思っています。
本稿では、このうち①~④について詳しくご紹介します。
①座右の銘「而今」
2022年11月から始めたメントレでは、トレーナーとの対話を通じて自身の考え方や行動を見つめ直す作業をします。開始から2年以上が経過して、少しずつ自分自身に変化が生じているのを実感しています。
メントレを始めたちょうどその頃、ある本で「而今」という言葉を見つけました。読み方は「にこん」もしくは「じこん」で、三重県の地酒としてご存じの方もいるでしょう。禅の世界において、「今を大事にする」という意味を表す言葉です。
棋士は色紙や扇子にサインを求められた時、その人の好きな言葉を書くことが慣例になっています。それまでは「挑戦」や「飛翔」などと書くことが多かったのですが、よく使用される言葉なので他の人と重複することも多く、他の単語を探していました。メントレでは目の前の物事に集中することでパフォーマンスを向上させることが主な目的なので、「而今」を見た時に「この言葉を座右の銘にしよう」と即決しました。
②ジンクスからの脱却
これまでに挑戦手合には23回出場しました(2025年7月現在)が、そのうち20回で初戦の結果とシリーズの結果が一致しています。つまり、初戦を取った時にはそのほとんどをタイトル獲得につなげていた一方で、初戦を落とすと敗退することが多かったのです。
開幕戦は大事ですが、当然ながら相手にとっても同じ状況ですので、必ず勝てるというものではありません。あくまで五番勝負、七番勝負という長丁場の中での一局に過ぎないのです。しかし、以前はそこに必要以上に意味を込め、ジンクスにとらわれてしまっていました。
ジンクスはすべて過去に起こった出来事に起因しているので、ジンクスにとらわれている状態は、意識が過去に向いていて「今」に集中できていないということになります。これは座右の銘である「而今」に反している。そう気づいた時から、ジンクスに対する考え方が変わりました。
考え方を変えたといっても、過去の記憶を消そうとしたのではありません。私はいつどこで誰と対局したかをかなり覚えているタイプなので(棋士によって個人差はあるみたいですが)、その記憶力の良さが時として自分を苦しめるジンクスになっていました。そこで、「これまでこの会場では勝ったことがないから、今回も勝てないかも」という思い込みを「今までは一度も勝ったことがないけれど、今回は初勝利を挙げられるチャンス」と変換することで、自分の置かれている状況を前向きに捉えるようにしたのです。
できないと思い込むことは私たちが想像している以上にパフォーマンスの低下につながります。メントレを始めて以降は、黒星スタートでもそこから巻き返して逆転することが増え、「初戦を落とすとシリーズも負ける」という思い込みから脱却することができました。
③「完璧にできない自分」を認めてあげる
以前の私は、どんな物事でも完璧にこなす人になりたいと考えていました。真摯に取り組むこと自体は良いことなのですが、「完璧にできないとダメだ」と100点か0点かで判断してしまうところがあり、それが自分自身を苦しめることにつながっていました。
そもそも、「完璧にこなす」とは一義的なものなのでしょうか?世の中には、学校の試験のように想定解があるものよりも答えがない物事のほうが圧倒的に多く、「正しさ」は個人の思考やその人が置かれている環境によって変化していきます。
すなわち、何をもって完璧と感じるかは人それぞれなので、自分自身の中で100点を取れなくても、それを理由に自分を責める必要はないのです。例えば、会議のプレゼンテーションの途中で言葉に詰まり、自分では「あれだけ準備したのに、途中で失敗してしまった」と思っていても、周りの人は素晴らしいプレゼンだったと評価しているというケースもあるでしょう。
物事を100点満点で考え、そこから減点方式にすると、マイナス面ばかりがクローズアップされて自己嫌悪に陥ってしまいます。「すべての物事を完璧にこなせる人間はいない」と割り切って考え、できたことを加点方式で物事を考えていくことが、自己肯定感を高めることにつながります。
④小さい成功体験(スモールステップ)の積み重ね
自己肯定感を高めるためには、目標をどのように設定するかがカギになります。メントレの分野で重視されているのは、「小さい成功体験を積み重ねること」です。具体的には、週の初めに「今週の行動目標」を3つ決めて、1週間後に振り返ってそれらの目標を達成することができた自分をほめてあげます。
ここでの目標は、少し頑張れば達成できそうなものでOK。ここで高い目標を設定してしまうと、できなかった時に自己肯定感が下がってしまうので要注意です。私の場合は「研究した布石を練習対局で試してみる」「毎日30分以上は運動する」など、囲碁に関することや日常の行動にテーマを決めて取り組んでいます。
そして、1週間単位の短期目標とは別に、半年~1年後の中期、5~10年後の長期で高い目標を設定します。多くの人は「目標を立ててください」と言われると、この中長期的な目標だけを立ててしまいがちですが(私も以前はそうでした)、なぜスモールステップの積み重ねが大事なのかを、「1年間で5㎏瘦せる」というダイエットを例に考えてみます。
よくあるパターンとしては、最初は熱心にジム通いをしていたものの、2週間ほどで飽きてしまいやめてしまう。体に負荷がかかるような食事制限をして、途中でしんどくなり、反動でやけ食いしてしまう。このようなことが起こってしまうのは、目標設定の仕方に原因があります。
「1年間で5㎏」という目標だけを掲げていると、その数字に強く意識がいってしまい、一気に5㎏減らそうとしがちです。それで急激に生活習慣を変えようとするのですが、無理をしている状態なので長くは続きません。結果として「ダイエットに失敗した」と、自己肯定感の低下につながってしまいます。
1年は約52週なので、1週間あたり100g減らせば十分という計算になります。そう聞くと気軽にできそうな気がしてきませんか?基本的な生活習慣は変えずに、普段の生活で簡単にできること、例えば「今まで大盛りにしていた食事を普通盛りに変える」「駅ではエスカレーターではなく階段を使う」といった具合にテーマを決めて実行していくのが、長く続けられて結果が出やすいアプローチになります。
小さい変化を積み重ねて、気づいた時には最初とは全く違うところにいた。このスタンスで10年後になりたい自分に近づけているのが理想です。