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知らない人にも「ボン・ディーア(おはよう)」 ポルトガル人が挨拶を欠かさない理由

乾祐綺(フォトジャーナリスト)

2026年07月03日 公開

カフェやスーパー、郵便局などに行ったとき、店員の方に挨拶はしますか?日本では用件だけを伝えて、雑談を楽しむことはあまりないかもしれません。

ところが、ポルトガルでは「ボン・ディーア(おはよう)」と声をかけ、自然と会話が始まっていくと、ポルトガルと日本の2拠点で活動する乾祐綺さんはいいます。本稿では、ポルトガル人が挨拶を大切にする理由を紐解いていきましょう。

※本稿は、乾祐綺著『西の果てで見つけた ポルトガル人のほどよい生きかた』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

カフェでも郵便局でも、どこでも"挨拶"から始まる

ポルトガルにおける「ボン・ディーア!(Bom dia!/おはよう!)」の一言は、単なる挨拶ではない。それは、この国の社会をまわすための潤じゅんかつゆ滑油みたいなもの。人と人を繋ぐ"信頼のスタートボタン"のような存在。

たとえば朝、カフェに入ってカウンターに立つ。無言で「ウマ、ビカ(Umabica/エスプレッソひとつ)」とだけ言うと、なんとなく空気が冷たい。店員の表情も固まるような感じがする。その前に「ボン・ディーア!」と一言添えるだけで、店員の表情がやわらぐ。「今日も暑そうね」「昨日の夕焼け、すごかったね」。そんな小さな会話が自然に続いていく。

郵便局でも、病院でも、スーパーでも同じだ。最初に目を合わせて「ボン・ディーア」。これがないと、相手もなんとなく調子が狂う。逆に言えば、この国では声をかけることが社会の前提になっているような空気がある。

ポルトガル語は母音で終わる言葉が多いとされる。だから、響きがやわらかい。日本語の「ありがとう」が、どことなく"カクカク"している響きなのに対して、

・オブリガード(Obrigado)/ありがとう

・デスクーペ(Desculpe)/失礼します

・メニーノ(Menino)/男の子

・コメール(Comer)/食べる

声に出すとどれも丸く、息が抜けるような音になる。この母音で終わる言語の性質は、言語学的にも対話のリズムを穏やかに保つとされている。言葉そのものが、争わない構造になっているというのだ。

あとは個人的には「s」の発音。これがまた、非常に丸い。「シュ」と鼻に抜けるように発音する。たとえば地名の「Cascais」は「カシュカイシュ」。赤ちゃん言葉のように、ポルトガル語は本当に穏やかな印象がある。

言語の話になったので、うんちくも少々。「オブリガード(Obrigado)」はラテン語のobligatus(義務を負う)から来ているそうで、つまり「あなたに恩義を感じています」という意味。日本語の「ありがとう(有り難し)」と同じく、相手の存在を尊重する言葉だ。

日葡辞書(1603年)にも「arigatô」の意味としてポルトガル語の「obrigado」に相当する語が記されており、500年たっても、どちらの国でも"感謝を言葉にする"文化が残っているのは、なんだか嬉しい。

さて、あいさつの話に戻る。以前、誰かが教えてくれた。「ボン・ディーアは、コーヒーみたいなものさ。これがないと1日が始まらない」。朝、カフェに常連客たちは一人ずつ入ってきて、全員が声をかけ合う。知らない人同士でも、「ボン・ディーア!」と言えばもう仲間。新聞を読む人、パステル・デ・ナタを頬張る人、みんなが同じ空気の中にいる。

社会学的にも、日常的な対話が社会的な信頼を支える重要な文化要素とされる。ポルトガルでは、「困ったときに頼れる人がいる」と答えた割合は87%(OECD Better Life Index)で、欧州でも高水準だ。

ポルトガルでは、声をかけるという行為そのものが、「あなたを見ています」というサインになっている。無言は無関心を意味し、挨拶は相手の存在を認める儀式でもあるのではないか。実際、社会学者たちは、こうした日常的な言葉の交換が「社会的信頼」を支える基盤になっているとも指摘している。

確かに、道端で「ボン・ディーア」と声をかけると、相手も必ず「ボン・ディーア」と返してくれる。それだけで、こちらも、おそらく向こうも、気持ちが和らぐ。街が少し明るくなる(言い過ぎ?)。誰もが"孤立していない"と感じられる。この言葉の往復が、見えない安全網を作っている。

 

挨拶が人間関係を積み上げる

では、なぜポルトガルではこんなにも挨拶が重要なのか。その答えの1つは、共同体社会としての歴史にある。ポルトガルは中世から小さな村や教区が基盤となる社会を築いてきた。どんなに小さな村でも、そこには必ず会とカフェ、広場があり、人びとは顔見知り同士で助け合って生きてきた。農村では声をかけ合うことが生存のために不可欠だった。災害や病気のとき、隣人へのひと声が命を救うこともあった。

また、カトリックの文化的背景も大きいのかもしれない。ミサの中で司祭が会衆に向けて語りかける「パス・エステージャ・コンヴォスコ(Paz estejaconvosco/あなたに平和を)」という言葉。これはキリストが復活の日に弟子たちへかけた最初の言葉である。

そこには、挨拶とは本来、平和を渡し合う行為だという考え方が息づいている。ポルトガルの人々の挨拶が、なぜあれほど柔らかいのか。そのわけを考えるとき、僕はこの言葉をふと思い出す。

ポルトガル語の「ボン・ディーア(Bom dia/良い日を)」「ボア・タルデ(Boatarde/良い午後を)」「ボア・ノイテ(Boa noite/良い夜を)」は、いずれも「あなたの時間が良いものでありますように」という祈りのニュアンスを含んでいる。構造的には「グッドモーニング(Good morning)」的なのだが、カトリックを重んじるこの国の宗教的な文脈からも"幸せを願う"構造になっていると感じている。だから、ボン・ディーアを言い忘れると、どこか心が引っかかる。

リスボンには「ア・ブラジレイラ(A Brasileira)」や「ニコラ(Nicola)」など、有名な老舗カフェがある。今ではどちらもリスボンの観光地的な場所になっている。カフェ文化が社会のハブになったのは19世紀。詩人や作家、政治家が日常的に集う"言葉の交差点"だった。そこで交わされる最初の言葉が、「ボン・ディーア」。この声をかける文化が、都市生活の中にも引き継がれた。

現代でも、ポルトガルのカフェの実に70%以上は個人経営とされる。スターバックスやチェーンが広がっても、地域のカフェはほとんど消えない。そこでは、注文の前にまず会話。エスプレッソ(ビカ)は30秒で出てくるけれど、会話は10分以上続くこともしばしば。「ボン・ディーア」が引き金となって、人間関係が積み上がっていく。

彼らにとって、カフェはサードプレイス(第三の家)であり、挨拶はその"入場チケット"のようなもの。一人でいても、一人じゃない。そんな安心感が、ポルトガルの空気をやわらかくしている。

最近、郵便局で荷物を出したときのことを思い出した。僕の前に並んでいたおじいさんが、窓口の職員に「ボン・ディーア、ドナ・マリア!(おはよう、マリア!)孫が生まれたんだよ」と話しかけていた。職員も「おめでとう!見せて!」と笑顔で応じる。そこに行列ができていても、誰も怒らない。なんなら写真を表示した携帯を一緒になって覗き込む。この数秒のやりとりが、街の雰囲気を確実に変えている。

一方で、日本では、こうした"声の交換"が減っているように思う。非効率だから?

挨拶とは、時間の浪費ではなく、信頼の投資だ。それを、ポルトガルの人たちは無意識のうちに知っている。社会学の分野では、信頼社会は制度によってではなく、日常の交流によって育まれるとされている。たとえば、ポルトガルでは「ボン・ディーア」と声をかける行為が、人と人との関係を繋ぎ直す"民主主義の練習"のように機能しているのではないか。

たしかにこの国では、選挙の投票率も比較的高いし(2024年の国政選挙では約66%)。その根っこには、人を信じる、声をかけるという日常の訓練があるからだろう。

夕方、カフェの店先で、常連客が店主に「アテ・アマニャ!(Até amanhã!/また明日!)」と声をかける。その響きが通りにこだまする。明日もきっと会える、という、不確かだけど希望を感じられる約束。こうした言葉の積み重ねが、孤立を防ぎ、"誰も一人にしない空気"をも作っているのだ。

著者紹介

乾祐綺(いぬい・ゆうき)

フォトジャーナリスト

ポルトガルと日本を拠点に活動するフォトジャーナリスト、編集者、プロジェクトディレクター。ANA機内誌『翼の王国』、伊藤忠商事会報誌『星の商人』、ソーシャル&エコマガジン『ソトコト』など、メディアの取材・撮影を通じて、これまで世界約60ヵ国を巡る。日本では主に里山に伝承される手仕事や農的暮らしの聞き取り、他方、ポルトガルでは「人生の楽しみかた」をテーマに、同国の奥深い文化や社会活動を多角的に取材・発信する。
現在、雑誌『Pen』や『婦人之友』などでポルトガルのトレンドや生きかたなどに関するコラムを連載中。フォトジャーナリズムを軸に、プロジェクトや実店舗運営なども通じて、日本とポルトガルの橋渡しを続けている。

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