遅刻されても怒らない ポルトガルで気づいた「時間より大切にしていること」
2026年07月08日 公開
電車はスケジュール通りに発着する。待ち合わせの時間はキッチリ守る。日本では「そんなこと当たり前でしょ」と思うかもしれませんが、ポルトガルでは「予定通りに進まないのが当たり前」だと、フォトジャーナリストの乾祐綺さんはいいます。
それでも「ポルトガルには日本にない豊かさを感じた」と語る、乾さん。本稿では、ポルトガル人の時間や人に対する考え方を紹介していただきます。
※本稿は、乾祐綺著『西の果てで見つけた ポルトガル人のほどよい生きかた』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
遅れても怒らない?時間に追われないポルトガル人の生きかた
ポルトガルに暮らしていて、最初に戸惑ったのは、時間があまり守られないということだった。
待ち合わせの時間に来ない、役所の手続きが延びる、というのは当たり前。バスの時刻表はまるで飾りのようで、でも、みんなバス停で待っている。最初のうちは正直、ちょっとイラッとした。日本の感覚で言えば「だらしないなあ」とか「不誠実?」と思ってしまうことも。でも、しばらく暮らしてみると、その寛大さの裏にある哲学のようなものが見えてきた。
撮影の約束をしていたポルトガル人の友人が、30分ほど遅れたことがある。もちろん、遅れる際には連絡をくれてはいた。現れた彼女は、「ごめんね」と言いながら、手には温かいコーヒーを持ってきてくれた。
「途中でおばあちゃんに会ったの。久しぶりだったから、ちょっと話してたの」
怒るどころか、むしろ僕のほうが恐縮してしまった。彼女にとって約束の時間を守るよりも、"おばあちゃんと話す"ことのほうが大切だったのだ。実にいい。そういう日常の積み重ねが、ポルトガルという国の"ゆるやかな空気"をつくっている気がする。
時間を守るより、目の前の人を大切にする
社会学的にも、ポルトガル人の"時間観"は興味深い。欧州価値観調査(EVS2020)によれば、ポルトガルでは人生において「家族が重要」と答える人が約9割で、「友人」を重視する割合も高い。文化心理学的にも、ポルトガルはポリクロニック(多時間的)文化に分類されるそうで、時間を守るよりも人との関係を守ることが社会のリズムをつくっている。
予定が多少ずれても、気にする人は少ない。むしろ"時間より人"が優先。この寛大さが、結果的に人々のストレスを和らげ、幸福度を支えているのかも?つまり、ポルトガルでは時間に正確であることよりも、"人に誠実である"ことのほうが優先される文化なのかもしれない。これは今を生きること、目の前の人を大切にする、とも言い換えられる。
そしてリスボンで暮らしていると、あちこちで人が"待っている"光景をよく見かける。恋人を待つ人、同僚を待つ人、なにかの順番を待つ人。でも、誰も苛立っていない。スマートフォンをいじっている人もいるけど、多くは"ただただ"待っている。待つ時間そのものが、人生の一部になっている?
“待つ時間”を味方にする
ポルトガル語には「エスペラール(Esperar)」という言葉がある。「待つ」という意味だが、「期待する」意味も持つ。急ぐことの多い日常の中で、この2つが重なり合っているのは、なんだか心地よい。
「待つ」ことと「期待する」ことが、同義語のように扱われている。たとえば、役所で順番を待っているとき、職員に「もう少しだけEspere(お待ちを)」と言われると、ちょっとした希望のニュアンスすら含まれて聞こえてしまうのは僕だけ?
待つことに関連して、この国の人たちは、予定よりも人を優先する。時間に遅れても、さらには約束を破っても、誰も怒らない。むしろ「来てくれてありがとう」と笑ってくれる。そこには、"完璧より誠実""効率より共感"という価値観が流れている。急がず、焦らず、目の前の人に丁寧に向き合う。それが、ポルトガル流の幸せの形なのかもしれない。
日本では「時は金なり」という言葉が使われることが多々ある。だがポルトガルでは、「時は人生なり」とでも言いたげな空気がある。時間は稼ぐものではなく、心身に"刻む"もの。たとえば、カフェでのコーヒーの時間。1ユーロ(約190円)のエスプレッソ1杯に、友人との会話や、自分を取り戻す大事なものが詰まっている。
ある日、撮影の途中で立ち寄ったカフェで、年配の男性が言った。
「焦って生きると、時間が逃げるよ。でも、ゆっくり歩けば、時間がついてくる」
その言葉を聞いた瞬間、妙に腑に落ちた。時間は敵ではなく、味方にできるのだと。ポルトガルの人たちは、時計を持っていても、時間に支配されていない。遅れても怒らない、予定どおりにいかなくても落ち着いていられる。それは、諦めでも怠慢でもなく、"人間らしく生きるための知恵"だ。
いつのまにか僕も、少しずつそのリズムに染まってきていた。バスが来なくても、まあいいかと思えるようになった自分がいる。予定がずれても、その分、誰かと立ち話をする余裕ができた。時間に追われるのではなく、"時間と歩く"。そんな生き方を、ポルトガルは教えてくれている。
面倒なことを愛する国
ポルトガルという国には、面倒なことを嫌わない空気がある。いや、むしろこの国の人たちは"面倒くさいこと"を愛しているのではないか、とさえ思ってしまう。
リスボンの街を歩くと、足元に広がる石畳に気づく。幾何学模様、波の文様、植物や花のモチーフーー手の込んだそれらは、すべて人の手で敷かれた「カルサーダ・ポルトゥゲーザ(Calçada Portuguesa)」と呼ばれる石畳だ。
ひとつの模様を作るのに、何千、何万という石が必要になる。職人たちは小さなハンマーを片手に、同じ姿勢で1日中、石を割り、角度を調整し、丁寧に地面へはめ込んでいく。機械化とは無縁の、気の遠くなるような手仕事。日本でいうなら、畳職人や漆うるし塗り職人のようなものだろうか。
技術だけではなく、根気も問われる仕事。しかしリスボンでは、その仕事が街の至るところに息づいている。観光客が写真を撮るたびに、「あの模様がかわいい!」と言ったりしている。だが、その模様の一つひとつの裏に、人の手と時間の積み重ねがあることを知っている人は少ないのでは?
石畳を作る職人は「カルセテイロ(Calceteiro)」と呼ばれ、リスボン市が設立した石畳職人学校で、その技術が教えられている。現在も、この伝統技術を守り継ぐ職人たちが、市や地域の支援を受けながら活動している。街の中心レスタウラドーレス広場には、彼らの仕事をたたえるカルセテイロの記念碑もあり、今日も街の誇りを静かに見守っている。
効率を重んじる国なら、きっと真っ先に舗装道路に切り替えただろう。だがポルトガルでは、街の文化的な遺産として、今もこの"面倒くさい作業"を続けている。この石畳を見ていると、ポルトガルという国の根っこの哲学が見えてくる。それは、"手間をかけることを、面倒だと思わない"ということだ。
面倒なことは、ゆっくりで、不完全で、非効率。だが、その"非効率の中"に、人の温度や時間の重みが生まれるのではないか。そこにこそ、この国の芯があるように思えてならない。
たとえば、街角のカフェ。エスプレッソを1杯飲むのに、10分も20分も会話をしていたりする。パン屋では、焼きたての香りを楽しむ人が列をなし、週末の市場で、野菜を一つひとつ手で選ぶ人も多く目にする。スーパーでまとめ買いするより、断然非効率。でも、その"手間の時間"が、暮らしのリズムを緩やかにしている。
カルセテイロ職人に「この仕事、時間がかかるでしょう?」と尋ねたことがあるのだが、「見たらわかるだろう。でも、時間をかけるほど、美しくなるんだよ」その言葉が、胸に残った。この国では"美しい"ということと"早い"ということは、両立しないのかもしれない。むしろ、「時間をかけること=美しい」と信じているように思える。
石畳だけではない。焼き菓子のパステル・デ・ナタ、アズレージョ(タイル)、家具の修復、刺繍......どれも一つひとつ手で仕上げる。その非効率さの中でこそ、人と人との関係も育まれていく。
日本にもかつては、同じような感覚があった。庭の手入れ、包丁を研ぐ、味噌を仕込む。「面倒」という言葉の中には、「丁寧」という意味が重なっていたはずだ。
僕は日本で、「里山体験隊(日本全国の農山漁村を訪ね、先人の知恵を体験し、学び、次代に繋ぐ活動を行う私的なコミュニティ)」と言う活動を、気の置けない友人たちと続けている。茅葺(かやぶき)屋根職人、原木椎茸栽培、伊豆のわさび農家など、日本に昔からあった里山の生業(なりわい)の現場を訪れ、土地の人たちと触れ合い、飲み交わす。
そこで思い至ったのは、"手間こそ価値"という考えかただ。それが、いつの間にか、日本ではなくなりつつあるのではないか(もちろん、そこに価値を見出し、新たな取り組みをする人たちもたくさん知っている)。
便利さや速さを追い求めるうちに、手間の価値はどこかに置き去りにされている。リスボンの石畳を歩いていると、その意味が静かに蘇ってくる。面倒なことを、もう一度大事にしてみよう。時間をかけることは、無駄ではない。ポルトガルにいると、それは、未来へ向けた"静かな抵抗"なのだと確信できる。