終戦から81年が経った今、国際情勢の変化を受けて、軍事のあり方をめぐる議論が国内でも活発になっています。防衛力を強めるべきだとする意見もあれば、武力に頼らない道を探るべきだとする意見もあり、市民の考え方も大きく分かれつつあります。
日本各地で哲学対話をひらいてきた永井玲衣さんは、写真家の八木咲さんと共に、「せんそう」について語ったり、聞いたり、考えたりする場をひらこうと、「せんそうってプロジェクト」を立ち上げました。7月に刊行された『せんそうって』は、文芸誌『群像』での連載をまとめた一冊です。
意見の異なる相手と、どう向き合えばいいのか――永井さんに、立場の違いの奥にあるものと、対話の可能性について語っていただきました。
一度線を引き始めると止まらなくなる
――最近は、各所から防衛力の強化について話がよく出てくると思います。市民の中にも、国を守るために軍事力を強めていくべきという意見と、そもそも戦争は嫌で、殺傷能力のある武器も売ったり持ったりしたくないという意見があって、どちらも根底には大切なものを守っていきたいという願いがあると思っています。それなのに、特にネットではそうなりがちですが、右か左か、敵か味方かの激しい二択になってしまう。それについて永井さんが感じることがあれば教えてください。
【永井】激しい二択ですよね。やっぱりみんな怖い、不安というのが大きいと思います。不安を解消するとき、外部に線を引くのが対処法の一つとしてあり得ます。あいつらと我々、とすることで自分自身を確かめられることがある。
ですが、その線を引くことは不安を解消する手立てにはなるものの、不安をより増幅させる要素もあります。一回線を引いてしまうと、外部を作り続けてしまうんです。たとえば「外国人」と「日本人」で分けたら、今度は日本人の中で「帰化人なのか」「愛国者なのか」と線を引き始める。いい日本人、わるい日本人。いい日本人の中でも、国をどれだけ愛しているかで線を引き始める。この線を引く手は止まらない。
自分が線を引かれるかもしれない不安の中にずっと居続けなきゃいけないので、終わらない。激しい二項対立は終わらない恐怖なんです。まさに軍拡競争のようなものだと思います。
私たちはみんな根本的に不安を抱えていて、それを線を引く以外でどう考えられるかというと、体を持って一緒に言葉を聞き合うという、ものすごく原初的なことでしかないと思っています。
対話をすると、二項対立が崩れるんですよね。だってみんな違うから。同じだと思っていたけど全然違う視点なんだ、と。それは悲しい違いではなく、「なるほど」と思える違い、納得のいく違いなんです。そういう背景を持っていたら確かにそういう言葉になるな、という理解が起きる。
対話とはちゃんとバラバラになること。それは個人主義に聞こえてしまうかもしれないですが、そうではなく、その人にはその人の命があって、その人の人格がそこにある、ということです。
敵・味方というラベルではなく、その人なんだ、と気づける。それは自分に対してもそうで、私は私という一人の命なんだ、人間なんだ、と回帰できることが大事です。そのうえで、それぞれの私たちが重なる部分がある、協力できることがたくさんある、そんな手触りを育てていく、そういう対話が本当に必要だと思います。
これは戦争についての対話だけでなく、いろんな対話の場面で、本当に切迫感を持って必要だと言うべきことだと思います。
「何発持ったら安心しますか」
――永井さんは書籍や、インタビューの中で、「分かり合えないからこそ哲学対話が始まる」とおっしゃることが多いと思います。日常的なことであればそれをやりやすいと思うのですが、戦争は大きなテーマですよね。たとえば身近な集まりで「軍拡した方がいい」「核保有すべきだ」などという話で盛り上がる場面に出くわし、自分がそれに反対派だった時、閉ざしたくなる感覚や、絶望的な分かり合えなさを覚えてしまうのではないかと思います。そういうものと出会ったとき、個人としてどう受け止めたらいいでしょう。
【永井】私は知りたいですね。「核兵器をいっぱい持つべきだ、日本は核武装すべきだ」と言われたら、なんでそう思うのかを知りたい。
それで聞いてみると、言った人本人から「怖い」といったシンプルな語りが出てきたりする。その「怖い」感覚はみんな知っている感覚なんです。「怖い」って何だろう、私たちは何を恐れているんだっけ、というところを話したい。軍拡すべきか否かではなく、その言葉の背後にあることについて話し合いたいです。
「核兵器を持つべき」だという人に対して、沖縄の平和学習講師をやられている仲本和さんが尋ねていて良い問いだなと思ったのが「何発持ったら安心しますか」というものです。
それで急に手触りを持ったというか、「確かに何発だっけ」となる。「1発だと不安だけど、1000発だったら安心する気がするのはなんでだろう」と一緒に考えられる。問い詰めることや政策の是非ではなく、一緒に話したり考えたり聞いてみたりしたいなと思います。
――確かに、何発かと問われた瞬間に、急に近くにある話題になっていく感じがします。永井さんは、自分と違う思想を持っている人がいたとしたら、一旦聞いてみる方に向かうのですね。
【永井】本当に興味がありますね、なんでだろうって。「戦争すべきだ」「戦争はしょうがない」「現実を見たらこうだから」と言った、そのときのあなたの、せんそうってどんな姿をしているのかを知りたい。
「戦争はしょうがない」と言うときのせんそうって、どんな姿なんだろう。「現実はこうだから」と言うときの現実って何だろう。私が見ている現実とあなたが見ている現実は違うかもしれないから、すり合わせたい。そんな気持ちになるかもしれません。
「本当の気持ち」と「口から出る言葉」はすれ違う
――一方で、多くの人は自分と違う考え方に出会うと、わかり合うことを諦めてしまうのかもしれません。怖い、聞きたくない、見たくない、という気持ちを少しでも和らげたいとき、永井さんとしてはどんなことをお勧めしたいですか。
【永井】対話の場に来てほしいですね。
自分とは違う立場の人でも、話を聞いていくと原初体験のようなものがあったりします。たとえば「軍拡すべきだ、もっと武装していくべきだ」という人に「なんでそう思うようになったんですか」と聞いていくと、父親にすごく支配されていて、「弱いところを見せたら終わりだ」という環境で育った、といったパーソナルな部分が出てきたりする。
人は、「思っていること」と「口に出すこと」がすれ違うことが多いんです。「核武装すべきだ」と言っているけど、本当はすごく寂しいと言いたいだけということもあったりします。言葉と思いがすれ違っていることは本当にザラなんですよね。私はそういうものに出会ってきたから、立場の違う人の言葉を聞けるのかもしれません。違う意見を怖いと思ってしまう人も、まずは聞いてみてもいいんじゃないですか、と問いかけたいと思います。
――なるほど。自分の心の中にある本音が、武装すべきだという主張になって出てきてしまうパターンもあるのですね。
【永井】ほとんどそうだと思います。戦争反対だと思う人にも、たとえばおばあちゃんがいつも戦争のことを辛そうに話していた、みたいな原体験があったりする。一方で、戦争はしょうがないんだ、と考える人は、実は昔いじめられていて「力こそ正義だ」と思った経験があったりする。
みんな、いきなりそう思うわけではないんです。その本当の気持ちにちゃんと人として出会うことを、もっとしてもいい気がします。その人を変えるために話すのではなく、知るために話す、ということです。
(取材・構成:PHPオンライン編集部 片平奈々子)