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- 連載小説「報復捜査」 第8回 安東能明
殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?
第8回
路地を抜けると、大久保通りの喧騒が戻ってきた。信号待ちの人の波。韓国語の歌がどこかの店から漏れてくる。伊場(いば)はその雑踏の中に立って、少し考えた。
法律の抜け穴を知っている。自分は賢いと信じている。その実、小心者だろう。そういう男が、公安の取り調べで何かを口にした。それが小暮を動かした。小暮は単独で動き始めた。そして、死んだ。
その構造が見えない。
午後二時を過ぎていた。
留置日誌に書かれていた平岡正治(ひらおかまさはる)の住所は、杉並区和田だった。
車に戻り、山手通りを南下した。中野通りに折れて、善福寺川沿いの道を西に走る。昭和の面影が残る静かな路地に入ると、道幅がまた細くなった。平岡の自宅は、その路地の奥にある古い木造アパートだった。二階建てで、一階の端が平岡の部屋だ。駐車できる場所を少し離れたところに見つけて、歩いた。
インターフォンもなかった。
伊場は、ドアをノックした。
しばらくして、扉が開いた。
小柄で横幅がある老人が立っていた。六十を越えてなお、腕だけが異様に太かった。左官職人が長年の仕事で作り上げた体だ。白髪混じりの角刈り、顔は赤黒く、鼻の頭に細かい血管が浮いている。安いジャージ姿で、右手の人差し指が少し曲がっている。
目が鋭かった。伊場を上から下まで一瞥して、すぐ顔を戻した。
「なんですか?」
「警察のものです」
平岡の目が、わずかに細くなった。警察と聞いても、怯えた様子は少しもない。ただ、面倒そうな色が出た。
「もう話すことはありませんよ。留置場から出てきたときに散々聞かれた」
「阿久津行夫と同じ房にいたことについて、少しだけ伺いたいんです。五分でいい」
「また阿久津ですか」
平岡は、鼻から息を吐いた。
「死んだ人間のことを、なんでまだ調べるんです」
「亡くなっていても、調べなければならないことがあります」
平岡はしばらく伊場を眺めていた。
「あんた、寝てないな」
唐突に言った。
「それ、仕事だけが原因じゃないでしょ」
伊場は、答えなかった。
「まあ、入りなさい」
平岡は扉を大きく開けた。
部屋に入ると、古い畳の匂いがした。六畳一間にちゃぶ台と、小さなテレビ。隅に横倒しになった灰皿と、競馬新聞が積んであった。壁際に、黒光りした鏝(こて)が一本、大切そうに立てかけてある。四十年使い込んだ道具の気配があった。
平岡はちゃぶ台の前に腰を下ろした。正座に近い座り方だ。
「阿久津と何日一緒だったんですか?」
「十日くらいですか。わたしが先にいて、あとから来ました」
「どんな男でしたか?」
「最初は気に食わなかった」
平岡は、迷いなく言った。
「インテリ気取りの、ニヤニヤした男でしょ。あいつは。こっちは近所の駐車場でチンピラと揉めて、ちょっと突き飛ばしただけで被害届出されて入ってたのに、同じ房に入ってきた初日から、不起訴になる自信があるって薄笑いで言いおって」
被害者と示(じだん)談が成立して釈放されたのだ。
「駐車場は災難でしたね」
「向こうが悪いんだよ、もともと。何年も何年も、おれのスペースに無断駐車を繰り返して。何度言っても聞かない。だから少し手が出た。それだけのことで十日も留置されて、示談が成立してようやく出られたのが、あの銃撃事件の二日前だからね」
そこで言葉を切って、平岡は低く続けた。
「法律上は問題ない、なんて言葉が好きな人ですよ、ああいうのは。法律を盾にして人を踏み台にするやつがいちばん嫌いです、おれは」
平岡は爪楊枝を取り出して、歯に当てた。
「でも、変わりましたよ」
「どう変わったんですか」
「公安の取り調べが始まってから、様子が変わった。最初は、公安なんてちょろいもんだって言ってました。強がって。ところが、何日かしたら、別人みたいになって」
「別人に?」
「怯えだした」
平岡は、爪楊枝を指先でくるりと回した。
「消灯後に何度も起き上がって、廊下の足音に敏感になって。おれはこいつ、本気でびびっとるんだと思いました。夜中に小声で何か言ってて、最初は聞こえなかったんだけど、ある夜、はっきり聞こえましたよ。警察じゃない、あいつらは、って言ってた。独り言でね」
「あいつらは警察じゃない、という意味ですか」
「たぶんそうです。そのあと、おれは消される、とも言ってた。何度も言ってた」
伊場は、手帳を出そうとして、やめた。
平岡が話してくれているのは、手帳を出せば終わる類の話だと、なんとなく感じた。
「暴れたこともあったと聞いています」
「ありましたよ」と平岡は言った。「射殺される三日前でしたか。夜中に急に大声を出して、看守を呼んで、出せ出せって暴れた。おれが起きてなだめましたよ。落ち着けって。そしたら、阿久津のやつが、おれの腕を掴(つか)んで」
平岡は、窓の方を向いた。
「おれに言ったんです。頼む、外に知らせてくれ、って。何を、とは言わなかった。外に知らせてくれ、それだけ。目が、子供みたいでしたよ。あんな目をする人間だとは思わなかった。最初から嫌いだったけど、あの目だけは、かわいそうだと思いました」
伊場は、平岡の横顔を見た。
この男は根は世話焼きだ、と伊場は思った。口が悪く短気だが、困っているものをほうっておけない。嫌っていた相手の怯えを見て、水を飲めと声をかけるような男だ。
「平岡さん、もうひとつ伺います。阿久津は、公安の取り調べの内容について、何か話していましたか」
平岡の視線が、伊場に戻った。
じっと見た。
「......あんた、それを調べてるのか」
「調べています」
「なんのために?」
伊場は少し考えた。
「友人が死んだからです。その友人が、阿久津の取り調べをしていた公安の刑事でした」
平岡は無言だった。しばらく、爪楊枝をゆっくりと噛んだ。
「友人というのは、屋上で死んだ人?」
「そうです」
「あんたが撃ったのか?」
伊場は、正面から平岡の目を見た。
「そうです」
答えてから、喉が乾いた。こんなにあっさり言えるとは、自分でも思っていなかった。
平岡は、少しのあいだ黙った。
「そうか」
それだけ言って、視線を外した。また爪楊枝を噛んだ。
「話してましたよ、阿久津は」
平岡は、ゆっくりと言い始めた。
「公安の取り調べが始まって、二日目だったと思います。取り調べから帰ってきたとき、阿久津が珍しく機嫌がよくて。また、公安なんてちょろいもんだ、って鼻で笑ってたんです。なにがちょろいんだと訊いたら、こんなことを言いました」
平岡は伊場の目を見た。
「アイテンに手が届きゃ、おまえらなんか一発だ、って。そう言って、鼻で笑ってたそうですよ。それが何なのかは、言いませんでした。ただ、アイテン、アイテンって。よっぽどの切り札のつもりだったんでしょう」
平岡は、ちゃぶ台の競馬新聞を引き寄せると、余白にボールペンを走らせた。太い指で、二文字を書く。
藍天(アイテン)。
「一度だけ、字を書いてみせたことがあるそうです。得意げに、こう書くんだ、って。藍色の藍に、天。中国の言葉で、青空って意味だとか。青空がなんで切り札になるのか、おれにはさっぱりでしたがね」
伊場は、その二文字を目に焼きつけた。
藍天。
初めて見る言葉だった。意味はわからない。だが阿久津は、それを公安をひねり潰せるほどの何かだと信じていた。
その言葉に、小暮が食らいついた。そして、何かの事情があって単独で動いた。その結果が、自らの死......。
「阿久津は、どこでその情報を知ったか言ってましたか?」
「言いませんでしたね。ただ、自分はいろんな場所に顔がある、ってことは言ってました。その顔のどこかから入ってきたんでしょう」
伊場は、少し整理した。
阿久津は広いブローカーネットワークを持っていた。そのどこかで、藍天という言葉を耳にした。中身は分かっていなかったのだろう。それでも、公安を手玉に取れると思い込んだ。その思い込みが、どこで裏返ったのか。
「平岡さん、もうひとつ伺います」
「なんですか」
「阿久津は、射殺される直前、どんな様子でしたか?」
平岡は、しばらく答えなかった。
競馬新聞の山を、視線が通り越した。もっと遠くを見ている目だった。
「前の日の夜、静かだったんですよ」と平岡はようやく言った。「それまでは毎晩ざわついてたのに、急に静かになって。朝ごはんを食べて、何も言わなかった。食い方はきれいでしたよ、あいつは。箸の持ち方が正しくて、音を立てない。それだけは、おれも認めてた」
平岡は、腕を組んだ。
「昼過ぎに連れ出されて、それっきり戻ってこなかった。取り調べに行ったんだと思ってたら、騒ぎになって、あとで射殺されたと聞いて。なんというか......」
平岡は、言葉を探した。
「どこかで覚悟してたんじゃないか、と思った。あの静けさは。長年現場仕事をやってきて、足場が崩れる前の静けさというのを知ってる。あいつは、前の日の夜、もう覚悟してたんじゃないかと。だから静かだった」
伊場は、ちゃぶ台の上の一点を見た。
阿久津は怯えていた。俺は消される、と繰り返していた。そして最終日、静かになった。
その静けさが、何を意味するのか。
絶望か。
諦念(ていねん)か。
それとも、別のものか。
「平岡さん、ありがとうございました」
伊場は腰を上げた。
「あんた、一介の刑事じゃないのか、これは」と平岡が言った。「友人の死を調べてる。だから来た。そういうことだろ」
「そういうことです」
「そうか」
平岡は、立ち上がりはしなかった。ちゃぶ台の前に座ったまま、腕を組んでいる。
「無茶をするなよ」と平岡は言った。
叱っているような口調だったが、声は低かった。
「若い者が命を懸けて守ろうとしたもんがあるんだろ。ちゃんと受け取れ。ただし、死ぬな。死んで解決することなんか、何ひとつない」
伊場は、深く頭を下げた。
平岡の部屋を出ると、梅雨の空気が顔に当たった。
車に戻り、エンジンをかけてから、しばらくそのままにした。
藍天。
阿久津が握っていた、正体の知れない二文字。阿久津がそれを知っていた。小暮がそれを掴んだ。小暮はそれを組織に報告せず、単独で動き始めた。なぜ報告しなかったのか。なぜ単独で動いた。
川本百合。
圭子から聞いたその名前が、また浮かんだ。小暮が五月三十日に密会した女。翌日に高円寺で交通事故に遭って死んだ女。
阿久津と川本百合(かわもとゆり)は、どこかで交わっているのか。
あるいは、川本百合こそが、その藍天の核心に近い場所にいるのか。
伊場の中で、半信半疑だった疑念は確信へと変わりつつあった。単なる考えすぎだ、と打ち消すには材料が揃いすぎている。阿久津の怯えと「消される」というつぶやき。藍天という切り札。そして、川本百合。これだけ並べば、ただの偶然とは思えなくなる。
わからないことばかりだ。それでも、糸口は出てきた。
時計を見ると、午後四時を過ぎていた。
夜には新井と落ち合う約束がある。
伊場は車を出した。善福寺川沿いの道を戻り、中野通りを北上する。夕暮れが近く、空の端がわずかに橙色に染まり始めていた。
藍天。
青空、という意味だと平岡は言った。その名を持つ何かを抱えたまま、不穏な夜が始まろうとしていた。これから飛び込もうとしている闇の深さを思うと、自然と肩のあたりに力がこもってきた。
〈つづく〉