1. PHPオンライン
  2. Moguru(本の話)
  3. 連載小説「報復捜査」 第8回 安東能明

Moguru(本の話)

連載小説「報復捜査」 第8回 安東能明

安東能明(小説家)

2026年10月21日 公開

殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?

 

第8回

路地を抜けると、大久保通りの喧騒が戻ってきた。信号待ちの人の波。韓国語の歌がどこかの店から漏れてくる。伊場(いば)はその雑踏の中に立って、少し考えた。

法律の抜け穴を知っている。自分は賢いと信じている。その実、小心者だろう。そういう男が、公安の取り調べで何かを口にした。それが小暮を動かした。小暮は単独で動き始めた。そして、死んだ。

その構造が見えない。

午後二時を過ぎていた。

留置日誌に書かれていた平岡正治(ひらおかまさはる)の住所は、杉並区和田だった。

車に戻り、山手通りを南下した。中野通りに折れて、善福寺川沿いの道を西に走る。昭和の面影が残る静かな路地に入ると、道幅がまた細くなった。平岡の自宅は、その路地の奥にある古い木造アパートだった。二階建てで、一階の端が平岡の部屋だ。駐車できる場所を少し離れたところに見つけて、歩いた。

インターフォンもなかった。

伊場は、ドアをノックした。

しばらくして、扉が開いた。

小柄で横幅がある老人が立っていた。六十を越えてなお、腕だけが異様に太かった。左官職人が長年の仕事で作り上げた体だ。白髪混じりの角刈り、顔は赤黒く、鼻の頭に細かい血管が浮いている。安いジャージ姿で、右手の人差し指が少し曲がっている。

目が鋭かった。伊場を上から下まで一瞥して、すぐ顔を戻した。

「なんですか?」

「警察のものです」

平岡の目が、わずかに細くなった。警察と聞いても、怯えた様子は少しもない。ただ、面倒そうな色が出た。

「もう話すことはありませんよ。留置場から出てきたときに散々聞かれた」

「阿久津行夫と同じ房にいたことについて、少しだけ伺いたいんです。五分でいい」

「また阿久津ですか」

平岡は、鼻から息を吐いた。

「死んだ人間のことを、なんでまだ調べるんです」

「亡くなっていても、調べなければならないことがあります」

平岡はしばらく伊場を眺めていた。

「あんた、寝てないな」

唐突に言った。

「それ、仕事だけが原因じゃないでしょ」

伊場は、答えなかった。

「まあ、入りなさい」

平岡は扉を大きく開けた。

部屋に入ると、古い畳の匂いがした。六畳一間にちゃぶ台と、小さなテレビ。隅に横倒しになった灰皿と、競馬新聞が積んであった。壁際に、黒光りした鏝(こて)が一本、大切そうに立てかけてある。四十年使い込んだ道具の気配があった。

平岡はちゃぶ台の前に腰を下ろした。正座に近い座り方だ。

「阿久津と何日一緒だったんですか?」

「十日くらいですか。わたしが先にいて、あとから来ました」

「どんな男でしたか?」

「最初は気に食わなかった」

平岡は、迷いなく言った。

「インテリ気取りの、ニヤニヤした男でしょ。あいつは。こっちは近所の駐車場でチンピラと揉めて、ちょっと突き飛ばしただけで被害届出されて入ってたのに、同じ房に入ってきた初日から、不起訴になる自信があるって薄笑いで言いおって」

被害者と示(じだん)談が成立して釈放されたのだ。

「駐車場は災難でしたね」

「向こうが悪いんだよ、もともと。何年も何年も、おれのスペースに無断駐車を繰り返して。何度言っても聞かない。だから少し手が出た。それだけのことで十日も留置されて、示談が成立してようやく出られたのが、あの銃撃事件の二日前だからね」

そこで言葉を切って、平岡は低く続けた。

「法律上は問題ない、なんて言葉が好きな人ですよ、ああいうのは。法律を盾にして人を踏み台にするやつがいちばん嫌いです、おれは」

平岡は爪楊枝を取り出して、歯に当てた。

「でも、変わりましたよ」

「どう変わったんですか」

「公安の取り調べが始まってから、様子が変わった。最初は、公安なんてちょろいもんだって言ってました。強がって。ところが、何日かしたら、別人みたいになって」

「別人に?」

「怯えだした」

平岡は、爪楊枝を指先でくるりと回した。

「消灯後に何度も起き上がって、廊下の足音に敏感になって。おれはこいつ、本気でびびっとるんだと思いました。夜中に小声で何か言ってて、最初は聞こえなかったんだけど、ある夜、はっきり聞こえましたよ。警察じゃない、あいつらは、って言ってた。独り言でね」

「あいつらは警察じゃない、という意味ですか」

「たぶんそうです。そのあと、おれは消される、とも言ってた。何度も言ってた」

伊場は、手帳を出そうとして、やめた。

平岡が話してくれているのは、手帳を出せば終わる類の話だと、なんとなく感じた。

「暴れたこともあったと聞いています」

「ありましたよ」と平岡は言った。「射殺される三日前でしたか。夜中に急に大声を出して、看守を呼んで、出せ出せって暴れた。おれが起きてなだめましたよ。落ち着けって。そしたら、阿久津のやつが、おれの腕を掴(つか)んで」

平岡は、窓の方を向いた。

「おれに言ったんです。頼む、外に知らせてくれ、って。何を、とは言わなかった。外に知らせてくれ、それだけ。目が、子供みたいでしたよ。あんな目をする人間だとは思わなかった。最初から嫌いだったけど、あの目だけは、かわいそうだと思いました」

伊場は、平岡の横顔を見た。

この男は根は世話焼きだ、と伊場は思った。口が悪く短気だが、困っているものをほうっておけない。嫌っていた相手の怯えを見て、水を飲めと声をかけるような男だ。

「平岡さん、もうひとつ伺います。阿久津は、公安の取り調べの内容について、何か話していましたか」

平岡の視線が、伊場に戻った。

じっと見た。

「......あんた、それを調べてるのか」

「調べています」

「なんのために?」

伊場は少し考えた。

「友人が死んだからです。その友人が、阿久津の取り調べをしていた公安の刑事でした」

平岡は無言だった。しばらく、爪楊枝をゆっくりと噛んだ。

「友人というのは、屋上で死んだ人?」

「そうです」

「あんたが撃ったのか?」

伊場は、正面から平岡の目を見た。

「そうです」

答えてから、喉が乾いた。こんなにあっさり言えるとは、自分でも思っていなかった。

平岡は、少しのあいだ黙った。

「そうか」

それだけ言って、視線を外した。また爪楊枝を噛んだ。

「話してましたよ、阿久津は」

平岡は、ゆっくりと言い始めた。

「公安の取り調べが始まって、二日目だったと思います。取り調べから帰ってきたとき、阿久津が珍しく機嫌がよくて。また、公安なんてちょろいもんだ、って鼻で笑ってたんです。なにがちょろいんだと訊いたら、こんなことを言いました」

平岡は伊場の目を見た。

「アイテンに手が届きゃ、おまえらなんか一発だ、って。そう言って、鼻で笑ってたそうですよ。それが何なのかは、言いませんでした。ただ、アイテン、アイテンって。よっぽどの切り札のつもりだったんでしょう」

平岡は、ちゃぶ台の競馬新聞を引き寄せると、余白にボールペンを走らせた。太い指で、二文字を書く。

藍天(アイテン)。

「一度だけ、字を書いてみせたことがあるそうです。得意げに、こう書くんだ、って。藍色の藍に、天。中国の言葉で、青空って意味だとか。青空がなんで切り札になるのか、おれにはさっぱりでしたがね」

伊場は、その二文字を目に焼きつけた。

藍天。

初めて見る言葉だった。意味はわからない。だが阿久津は、それを公安をひねり潰せるほどの何かだと信じていた。

その言葉に、小暮が食らいついた。そして、何かの事情があって単独で動いた。その結果が、自らの死......。

「阿久津は、どこでその情報を知ったか言ってましたか?」

「言いませんでしたね。ただ、自分はいろんな場所に顔がある、ってことは言ってました。その顔のどこかから入ってきたんでしょう」

伊場は、少し整理した。

阿久津は広いブローカーネットワークを持っていた。そのどこかで、藍天という言葉を耳にした。中身は分かっていなかったのだろう。それでも、公安を手玉に取れると思い込んだ。その思い込みが、どこで裏返ったのか。

「平岡さん、もうひとつ伺います」

「なんですか」

「阿久津は、射殺される直前、どんな様子でしたか?」

平岡は、しばらく答えなかった。

競馬新聞の山を、視線が通り越した。もっと遠くを見ている目だった。

「前の日の夜、静かだったんですよ」と平岡はようやく言った。「それまでは毎晩ざわついてたのに、急に静かになって。朝ごはんを食べて、何も言わなかった。食い方はきれいでしたよ、あいつは。箸の持ち方が正しくて、音を立てない。それだけは、おれも認めてた」

平岡は、腕を組んだ。

「昼過ぎに連れ出されて、それっきり戻ってこなかった。取り調べに行ったんだと思ってたら、騒ぎになって、あとで射殺されたと聞いて。なんというか......」

平岡は、言葉を探した。

「どこかで覚悟してたんじゃないか、と思った。あの静けさは。長年現場仕事をやってきて、足場が崩れる前の静けさというのを知ってる。あいつは、前の日の夜、もう覚悟してたんじゃないかと。だから静かだった」

伊場は、ちゃぶ台の上の一点を見た。

阿久津は怯えていた。俺は消される、と繰り返していた。そして最終日、静かになった。

その静けさが、何を意味するのか。

絶望か。

諦念(ていねん)か。

それとも、別のものか。

「平岡さん、ありがとうございました」

伊場は腰を上げた。

「あんた、一介の刑事じゃないのか、これは」と平岡が言った。「友人の死を調べてる。だから来た。そういうことだろ」

「そういうことです」

「そうか」

平岡は、立ち上がりはしなかった。ちゃぶ台の前に座ったまま、腕を組んでいる。

「無茶をするなよ」と平岡は言った。

叱っているような口調だったが、声は低かった。

「若い者が命を懸けて守ろうとしたもんがあるんだろ。ちゃんと受け取れ。ただし、死ぬな。死んで解決することなんか、何ひとつない」

伊場は、深く頭を下げた。

平岡の部屋を出ると、梅雨の空気が顔に当たった。

車に戻り、エンジンをかけてから、しばらくそのままにした。

藍天。

阿久津が握っていた、正体の知れない二文字。阿久津がそれを知っていた。小暮がそれを掴んだ。小暮はそれを組織に報告せず、単独で動き始めた。なぜ報告しなかったのか。なぜ単独で動いた。

川本百合。

圭子から聞いたその名前が、また浮かんだ。小暮が五月三十日に密会した女。翌日に高円寺で交通事故に遭って死んだ女。

阿久津と川本百合(かわもとゆり)は、どこかで交わっているのか。

あるいは、川本百合こそが、その藍天の核心に近い場所にいるのか。

伊場の中で、半信半疑だった疑念は確信へと変わりつつあった。単なる考えすぎだ、と打ち消すには材料が揃いすぎている。阿久津の怯えと「消される」というつぶやき。藍天という切り札。そして、川本百合。これだけ並べば、ただの偶然とは思えなくなる。

わからないことばかりだ。それでも、糸口は出てきた。

時計を見ると、午後四時を過ぎていた。

夜には新井と落ち合う約束がある。

伊場は車を出した。善福寺川沿いの道を戻り、中野通りを北上する。夕暮れが近く、空の端がわずかに橙色に染まり始めていた。

藍天。

青空、という意味だと平岡は言った。その名を持つ何かを抱えたまま、不穏な夜が始まろうとしていた。これから飛び込もうとしている闇の深さを思うと、自然と肩のあたりに力がこもってきた。

〈つづく〉

著者紹介

安東能明(あんどう・よしあき)

小説家

1956年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年『鬼子母神』でホラーサスペンス大賞特別賞、10年には「随監」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。緻密な取材が生む警察小説やサスペンス小説で多くのファンを魅了している。

関連記事