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社会

岡崎久彦 歪められた戦後の「歴史問題」 〔1〕

岡崎久彦(NPO法人岡崎研究所所長)

2014年02月17日 公開 2024年12月16日 更新

『Voice』2014年3月号より》

 

敗戦と占領の後遺症で、日本が自ら発した自虐史観

 

勝者アングロ・サクソンの歴史

 日本の敗戦後70年近くを経て、日本の隣国である中国と韓国との関係において、いわゆる歴史問題がいまだに残っている。

 この問題の不思議なことは、国際問題ではあるが、その根源を探っていくと、問題はすべて日本から発出していることである。

 つまり、戦後の日本の思潮の中に、自らを貶める文化があるということである。現に、そのような史観は日本では自虐史観と呼ばれている。それは、日本の歴史ではかつてなかった思潮である。

 もっとも、20世紀末においては、それは日本だけでなく、世界的な現象ともなっている。英国では、かつての奴隷貿易、米国ではインディアンの土地収奪を責めるいわゆる「レヴィジョニズム」がある。ただ、それは欧米の思潮の中できわめて部分的な地位しか占めず、日本のように、国家の外交にまで影響を及ぼしていない。

 ドイツのホロコーストの場合は、歴史の解釈の問題ではない。ナチス政権の対ユダヤ人政策については、その政策遂行の意思も手段も、歴然たる証拠があり、自虐というよりも解釈の余地のない歴史上の事実であるからである。

 もちろん、すべては日本の敗戦の後遺症である。日本の敗戦は、1945年8月15日のポツダム宣言受諾による降伏では終わらなかった。

 近代国際社会では、戦争がある段階で勝負がつくと、まず休戦条約を結び、その上で講和条約を結んで、その条約の条件に従って、戦争が終結する。

 日本もそのつもりだった。ポツダム宣言という条件を受諾して、降伏を申し入れたのだから、その条件を満たした上で、いずれ、国家を再建するつもりだった。それが、近代における過去の敗戦国が歩んだ道だった。

 ちなみに、それがそういかなかった理由は、1つは、第一次大戦後、戦争が国家総力戦となったことにある。

 その前の戦争は、極端にいえば、一般市民に関係のない、軍隊同士だけの戦争だった。

 しかし、国家総力戦となると、国民全体の協力が必要となる。そうすると国民の協力を得るためには、相手は悪の権化、自らは正義の味方と国民に信じてもらわねばならない。

 それぞれの歴史の上に立って成立した近代国家の間の戦争で片方が絶対善、片方が絶対悪ということはあり得ないことであるが、戦争の高潮期、そして戦争の決着直後はそれが真実となってしまう。そうなると敗者は悪の権化であるから、どういう処遇をしても良いこととなる。つまり、勝者の圧政が許されることとなる。

 こうして、勝ったほうの判断は歴史として残り、負けたほうの主張は歴史から抹殺されることになる。特に、アングロ・サクソンは歴史を書くのに長けている。世界の歴史で、独自の文明をもつ、中国と日本の歴史を除いては、ペルシャ、インド、エジプトなどの伝統のある大民族の歴史書で、まとまったものは、ほとんどアングロ・サクソンが書いたといって過言でない。ローマ帝国衰亡の長い歴史を書いたギボンはその例である。

 したがって、第一次、第二次大戦の正統な歴史として残るのは勝者アングロ・サクソンの歴史である。

 

米政府に残る無条件降伏の思想

 日本の占領政策が近代の国際慣例無視となった、もう1つの理由は、ドイツの例が先例となったことである。ドイツの場合は、休戦条約も平和条約もなかった。連合軍がドイツ全土に侵入して、政府も何もない占領下に置かれた。その前例がそのまま適用されて、政府が、公式にポツダム宣言を受諾して、整斉と占領軍を受け入れた日本にそのまま準用されてしまったのである。

 米国では、ローズベルト大統領は一貫して無条件降伏を主張した。日本の伝統を理解し、硫黄島、沖縄などにおける日本軍の勇戦に感動したチャーチルは、日本に名誉ある敗戦を与えようと提案したが、ローズベルトは、真珠湾を攻撃した日本には護るべき名誉など残されていないといって、無条件降伏を主張した。

 ローズベルトの死後、トルーマンは、無条件降伏という主張は行なわず、ポツダム宣言による降伏を提案し、日本はそれを受諾した。

 しかし、ローズベルト以来の、無条件降伏の思想は米政府内に深く残り、降伏の20日後、米国務省は、五百旗頭教授の表現によれば「最も粗暴なる」文書を占領軍司令官に送った。その文書は、「日本との関係は契約的基礎に立つのでなく、無条件降伏に基づくものである」といっている。そしてこの方針は、占領7年間維持された。つまり、戦争裁判でパル判事がいったように、「敗戦者を皆殺しにした昔と、われわれの時代との間の数世紀の文明を抹殺する」ことが既成事実となったのである。

 せめてもの救い、というよりも唯一の救いは、日本を占領した国が、ユーラシア大陸を席巻して、骸骨のピラミッドを築いたモンゴル軍でもなく、現代でもベルリン、満州で暴行の限りを尽くしたロシア軍でもなく、アメリカ軍であったということだけであった。

 法理論的には、野蛮国の占領と同じ状況に置かれたが、占領軍が文明的であったというだけの違いである。

 それでもケーディスなどの、植民地官僚的な振舞いはいまでも嫌悪感を以て記憶されている。

 先に述べた自虐史観もその根源をたどれば、こうして国際法も、国際慣例も、日本が受諾したポツダム宣言も無視した初期占領行政が日本に及ぼした後遺症の1つである。

 占領の後遺症といっても、占領軍の政策の中で、自由と民主主義の復活には、日本側は何の抵抗もなかった。そのほとんどは、戦前、明治の自由民権運動以来自らの手で勝ち得て来たものの復活であった。ただ戦時中はどこの国でも国家統制強化の必要があって、システムは硬直化するが、それは戦争が終われば自動的に撤廃されるものであり、現に撤廃された。

 言論、結社の自由などは戦争が終わるが早いか、米軍の到着を待たず、東久邇内閣によって撤廃された。婦人参政権、労働法、農地改革などは、大正デモクラシーと、その後の世界の趨勢に沿ったものであって、占領軍の政策は日本側のイニシァティヴにほとんどそのまま乗った形となった。

 日本側が、予期もせず、また、いまだに独立国家としての日本の現実と融和していないのは、その時の占領当局の事情で、1週間で作成された英語の原文の翻訳文である日本国憲法だけである。

 ここで問題としている自虐史観は占領の遺産ではあるが、それは法制上というよりも占領中の洗脳の影響だった。

 軍事占領は7年間続いた。7年というのは恐るべき長い期間である。21世紀初めに日本社会の指導層であった60歳代(1930~1940年生まれ)の人々は、ことごとくその少年期の人格形成期の中にこの7年間を体験していることになる。

 しかもその影響はこの世代に限られなかった。現在、日本の社会で活動しているすべての日本人の人格形成に深い影響を与えている。

 それはアメリカの初期占領政策を、アメリカが早々に放棄したにもかかわらず、日本の左翼マルキシスト勢力がその後、半世紀あるいはそれ以上に現在に至るまで、温存したからである。

 米国は、まず降伏によって、物質的な武装解除を行なった。そして、日本国民に対して、これもポツダム宣言(言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ)、米国人が起草した日本の新憲法、米国憲法のすべてが保障している、言論の自由の違反である厳しい言論統制を布いて、言論の自由を奪い、日本の過去の歴史はすべて悪と断定し、日本人から、国家を護る意識を根絶させようとした。それがいまに残る歴史問題の源である。

 こんな人類の歴史の常識に反した政策が長続きをするはずはない。

 国際情勢はどんどん変転する。新たに現われたのが、ソ連の脅威であった。そこで、日本が自由主義陣営側として軍事力でも貢献することを望む、ジョージ・ケナンなどの米政府中央の戦略家たちと、初期占領政策に固執するマッカーサーとの間に相克が生じた。

 しかし、真の問題は、マッカーサーよりも日本国民にあった。占領中に洗脳された日本人はもう昔の日本人ではなかった。

 日本を自由陣営のパートナーとしようとして、そして対日講和締結の交渉のために訪日したダレスは日本人と会って、そのパシフィストぶりに驚いたという。

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米国の初期占領政策が左翼によって増幅された

著者紹介

岡崎久彦(おかざき・ひさひこ)

NPO法人岡崎研究所所長、外交評論家

1930年、大連生まれ。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省入省。1955年ケンブリッジ大学経済学部学士および修士。防衛庁国際関係担当参事官、初代情報調査局長、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使などを歴任。1992年退官。著書に『日本外交の情報戦略』(PHP新書)ほか多数。

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