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生き方

「ボクにはどうして名前がないの?」浩宮さま(現在の天皇陛下)が、幼稚園時代に抱かれた疑問

浜尾実(故人)

2025年02月23日 公開

東宮侍従として、浩宮さま(現在の天皇陛下)のご養育掛りを約十年間もつとめられた浜尾実さん(平成18年逝去)。「オーちゃん」と呼ばれていた浜尾さんは、天皇陛下の日々のご成長を間近で見守り続け、その後、教育評論家として書かれた多くの著作で、その日常のお姿を紹介された方です。天皇陛下は本年2月23日、65歳の誕生日を迎えられますが、その幼少期の逸話に心が揺さぶられます。

※本稿は、浜尾実著『浩宮さま』(PHP文庫)の一部を抜粋したものです。見出しや〔 〕内注記は編集部によるものです。

 

「オーちゃん、ボクにはどうして名前がないの?」

幼稚園生活がはじまってからの浩宮さまが、強くお感じになったことは、御所の中での生活とちがって外の世界には、ご自分以外に、それぞれの考えと主張を持つ子どもがいっぱいいるということであったろう。これは、それまで頭の中ではわかっていながら、実感としてはピンとこなかったことではないかと思う。

ふつうだったら、幼稚園の生活を経験しなくても、家の近所の子どもたちとお互いの主張がぶつかったり、いたずら遊びの中で協力し合ったりということのつみ重ねによって、他人の存在を強く意識するようになる。その点、浩宮さまは、とくべつな環境にあられたわけである。

たとえば、ブランコ遊びにしても、御所の庭には、いつでも、ブランコが宮さまを待っていた。ところが、幼稚園の庭では、乗りたいと思ってもお友だちに先を越されていて順番を待たなければならないことがある。こういうことは、それまではなかったことだ。

なんといっても、浩宮さまが、ひとつのとくべつなお立場にあられることは、動かしがたい事実である。そのことと、民間の幼稚園で「他の子どもたちと同じように」生活体験を持つということとが、うまく調和することによって、宮さまは、幼いながらもある脱皮をされるはずであった。

両陛下〔現在の上皇上皇后両陛下〕が宮さまのための教育機関を設けるなどということをはじめからお考えにならなかったのも、そのためであった。

とくべつなお立場にあるがための、宮さまなりのとまどいのようなものは、かなりあったようだ。ある日、宮さまは私に、こんなことを言われた。「オーちゃん、ボクにはどうして名前がないの?」

いうまでもなく、宮さまのお名前は、「浩宮徳仁親王」である。しかし、これは、たとえば「山田太郎」という名前とは、ちがう。幼稚園では、先生もお友だちどうしも、「太郎ちゃん」「花子ちゃん」というふうに呼ぶけれども、宮さまのことを「ナルヒトちゃん」とは呼ばない。「宮ちゃま」であった。これでは宮さまが、「ボクには名前がない」とお感じになるのは当然である。

宮さまのお名前に関しての疑問に、「それではナルヒトちゃんとお呼びしましょう」というわけにもいかず、私はおおいに困ってしまったものであった。

こまかいことでは、そういう面があったにもかかわらず、宮さまは、4歳の子どもとしての自然さで、お友だちの中にとけこんで行かれた。私は週一回くらいは受け持ちの大熊先生をたずねていろいろとお話をうかがったが、宮さまは、こだわりなくみんなとイタズラもなさるし、テレビまんがの話もされるというふうで、何の心配もいらないということであった。

宮さまが、子どもとしての自然な姿で小さな集団の中のひとりとして、生き生きとした表情を示しておられるということに、私は、たまらなくいとおしい感じを持った。そしてそういうことこそ、両陛下が望んでおられるご教育の一面であろうと思った。

 

心の中で「宮さま、ごりっぱですよ」と呟いていた......

幼稚園生活ではじめての夏休みは、7月14日からはじまった。翌15日に私は、陛下と浩宮さまのおともをして、軽井沢へ行った。ご一家は、毎年夏に、軽井沢へ避暑に行かれる。この年の夏だけは、皇后さまだけが御所にお残りになったが、それはたしか歯のご治療中だったからだと思う。

あのころの宮さまの愛らしいお姿は、いまでも私の瞼まぶたに焼きついている。紺のイートン帽、白い開襟シャツ、紺の半ズボン、そしてシンボルマークになった小さなバスケット。急行"白山"で軽井沢駅に着いたとき、例年のように、待ちかまえていた報道関係者のカメラの放列があった。そのカメラに取り囲まれながら、宮さまには「ボクはもう幼稚園なんだゾ」という幼い自信のようなものがにじみ出ているように、私には思われて、微笑が湧いてきた。

私がそのように思ったことには、理由があった。宮さまはお生まれになってこのかた、なにかというと、見られるお立場にあった。とくに、報道関係者のカメラは、その数からいっても、熱心さからいっても、かなりの圧力があって、私などもタジタジになってしまうほどであった。

私は、新しい時代にふさわしい皇室のお姿を国民のみなさんに知っていただくために、マスコミの報道は大切な意味を持つという考えから、取材には最大限の努力をして協力してきた。協力しすぎるという批判の声が一部にあったほどである。

その点、陛下も理解をお持ちだったが、浩宮さまは、マスコミというものがどういうものかご存じないので、常にご自分に向けられるカメラの放列を、ふしぎな感じで受けとめられたはずであった。

たとえば、私が宮さまのお手をとっているときに、カメラがぐっと迫ってきたりすると、宮さまの手にはすがりつくように力が入った。まったくそれは、気の弱い子なら泣き出してしまうだろうと思われるくらいの圧力があったのである。幼稚園に入られたという自覚が、そういう場合の反応にもあらわれているように思われて、私は心の中で「宮さま、ごりっぱですよ」と呟いていたのである。

軽井沢では、千ヶ滝のプリンスホテルに滞在された。朝おめざめになると、つめたい霧につつまれた樹木の中で小鳥が鳴いている。宮さまはじっとしていらっしゃることができずに、すぐに庭へ。自転車にお慣れになったころであったから、東京から運んだご愛車をしきりに乗りまわされた。私も宮さまの後を追って、汗をかきながらペダルを踏んだものであった。

軽井沢で宮さまを楽しませたのは、自然の小さな生きものたち(昆虫)であった。東京の御所も樹木が多いので、トンボ、セミ、チョウチョウなどがいたが、軽井沢は、宮さまには未知の生きものが数限りなかった。コガネムシ、テントウムシ、カブトムシ、カミキリムシ......。宮さまの虫籠は、たちまちいっぱいになった。

ある日、宮さまが、心配そうな顔で、虫籠の中をのぞいておられた。「どうかなさいましたか」と私が近づくと、「テントウムシが、元気がない」と言われる。私は、微笑して、どうなさるかを見守っていた。宮さまは、気になるテントウムシをそっと籠から出し、「さあ、おうちへおかえり」 と草の中へ放された。

軽井沢の夏は、宮さまの健康にいいだけでなく、自然の中で心をお育てになる、さまざまなチャンスもつくった。陛下が、いつも心がけていらっしゃる「足腰の強い子」になっていただくための訓練にも、軽井沢の夏は役に立った。そのひとつは、山登りである。

軽井沢周辺には浅間山をはじめとして、手頃な高さの山が多い。石尊山、小浅間、一の字山、浅間隠、鼻曲、八風山など、大小の山々を浩宮さまは、ほとんど踏破された。私も父が軽井沢に別荘を持っていたので、少年時代から軽井沢を知っているが、宮さまのように、山に登ることは多くなかった。私は宮さまのお供ともをしてはじめて、それらの山を知ったのであった。

 

「お血筋をひかれて、すべてに研究熱心」な浩宮さま

宮さまは、昭和天皇、今上天皇〔現在の上皇陛下〕のお血筋をひかれて、すべてに研究熱心であった。山登りをされるにも、いろいろお聞きになるので、私のほうでも、調べておかなければならない。それは、あるときは、その山に咲いている珍しい高山植物、昆虫などであったが、またあるときは、遠くに霞んで見える山の名称のときもあった。

「オーちゃん、この花は何という名なの」と尋ねられたりすると、私も知らないなどとは言えなかった。おかげで私もずいぶん勉強させていただいたし、宮さまも数多い山々の標高などを、すっかり覚えてしまわれたほどである。

山登りの日は、皇后さまが朝からお弁当やキャンディを用意された。山道でつまずかれたときにけがをなさらないように、またアブに刺されないために長ズボンをはかれた宮さまは、お弁当のバッグや水筒を肩に、元気に歩かれた。「自分のことは自分で」ということを、両陛下も私もとくに注意していたので、お荷物は自分で持たれたのである。皇后さまは、そのお弁当のバッグの中に、「これはオーちゃんの分ですよ」と、キャンディを入れて下さったりした。

お小さいときから、御所の庭の木の切り株から飛びおりたり、駆けっこをしたりで鍛えられている宮さまは、なかなかの健脚であった。体力が衰えはじめている私は、途中でハアハア言いはじめる。宮さまは、どんどん前へ進んで行かれる。私としては、おひとりで先に行かれて、もし危険なことでもあったらたいへんだと気がもめるのだが、宮さまは、そんな私の心配はご存じなく、先のほうに立ちどまって、気分よさそうに私を振り返ったりなさる。

「宮さま、すこしお休みしましょう」。私がネをあげると、素直に賛成なさった。そして私の分のキャンディをバッグから取り出してくださるのだった。

私の家族も、夏は軽井沢で過ごすことが多かったので、浩宮さまより一歳上の昇と、同じ年の美恵子も、山登りにお供させていただいたことがあった。私は御所の中の官舎に住んでいたから、宮さまが私の家へおしのびで遊びに見えることもあった。だから、私の子どもたちは、子どもどうしのおつきあいのない宮さまにとっては、唯一の"おさななじみ"といえるだろう。

そんなわけで、山登りも3人の話がはずんで、私は"のけもの"であった。脚力がかなわないので、取り残されるのもやむを得なかったのだが、私は私で、あえて意識して"のけもの"に甘んじるようにした。それというのは、子どもは子どもどうしの時間が一番楽しいし、そういう時間を持つことの意味も大きいと考えたからであった。

この夏は、浩宮さまの心身のご成長が、とりわけすばらしかったように、私には思われた。幼稚園にお入りになったという、ひとつのターニング・ポイントがあったからかも知れない。

 

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