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斎藤道三は織田信長より早く、経済改革をしていた!

井沢元彦(歴史作家)

2015年03月18日 公開 2022年11月09日 更新

道三が行った経済革命とは?

 『国盗り物語』には、若き日の斎藤道三が、こうした寺社勢力と戦ったエピソードが描かれています。

 最初、山崎屋庄九郎も「座」という組織に属する特権的な油商人でした。しかし、全国を売り歩く中、自分がやっている商売に疑問を持つようになります。そしてついに、これはおかしいということで変えようとするのですが、悲しいかな一介の商人の身分では寺社勢力の持つ強大な武力に敵わず、叩きつぶされてしまいます。

 しかし庄九郎は諦めませんでした。彼は、自分が負けたのは武力で負けたのだから、今度は領主となることで寺社勢力と戦うことを決意するのです。

 『国盗り物語』の中の斎藤道三のセリフに次のようなものがあります。

 「かつて美濃紙というのは座でつくられていて非常に高価なものであった。けれど、俺の政策によって誰もが気楽に使えるようになった」

 実際に斎藤道三の父が寺社勢力と戦ったかどうかはわかりません。でも、道三がかつて油商人だった父から「座」の問題点や、寺社の汚いやり方などについて聞かされていた可能性は高いと思います。なぜなら、この『国盗り物語』の道三のセリフは事実に即しているからです。

 そういう意味では、道三というのは中世日本における経済改革の端緒を開いた人だと言えるのです。もしかしたら、彼は商人の息子ということで、見下されるようなこともあったのではないでしょうか。それが正規の武士に対する反発心に繫がり、美濃の国主を目指した原動力になったり、国主になってからは正規の武士には思いつかないような経済改革を目指すきっかけになったかも知れません。

 楽市・楽座を行うということは、既得権の持ち主である寺社勢力と戦うということを意味しています。ですから、信長が寺社勢力から「仏敵」と呼ばれたのは、実は楽市・楽座を大々的に行ったからなのです。

 ごく簡単に言えば、楽市・楽座なんてことをやられたら、俺たち寺社は楽に儲けられなくなるじゃないか、ということなのですが、宗教団体があからさまにそんなことは言えないので、「仏敵」という言葉で信長を非難したのです。

 多くの人は「比叡山焼き討ち」という事象だけを見て、信長というのは宗教弾圧を行った大悪人だと思っているのですが、それは大きな間違いです。信長は宗教を弾圧してはいません。事実、あれほど激しく戦った本願寺に対してでさえ、禁教令を出したことは一度もありません。

 信長が寺社と戦ったのは、宗教団体が政治や経済に口を出し、悪徳と言ってもいい商売で法外な利益を得て、庶民を苦しめていたからです。このまま寺社に大きな顔をさせていたら、日本経済の発展もあり得ませんでした。

 しかし、この寺社勢力との戦いが厄介だったのは、僧兵という強大な武力集団を持っていたため、武力で相手を叩き潰さなければならなかったことです。

 戦国大名は、さまざまな経済政策を行っています。楽市令を出したのも織田信長が最初ではありません。現在、史料によって発布が確認されている最初の楽市令は1549年に近江の六角氏が出したものです。

 大名は、領国民を多数動員して築城や大河川の治水などを行なったほか、居城の周囲に重臣や武器・武具などをあつかう商工業者を集住させ、城下町づくりを行なった。また通行と物資の輸送を円滑にするために、関所を撤廃し、宿駅や伝馬などの制度をととのえた。さらに大名は、各地の六斎市を保護し、座の特権を廃止する楽市令を出して、自由な商取り引きを保障した。
  ――『日本史B 改訂版』三省堂 132〜133ページ

 しかし、信長以前の楽市令は大きな成果をもたらすことはありませんでした。なぜなら、寺社との武力衝突を避けていたからです。

 信長の政策はほかの戦国大名と共通する点が多いが、京都や堺などの都市を支配下におき、安土には家臣団を常住させ、楽市・楽座を命じて自由な営業をみとめ、城下町の繁栄をはかった。各地の関所を廃止して、物資や兵力の輸送を容易にし商業の発展をうながした。
  ――『日本史B 改訂版』三省堂 138ページ

 信長が、なぜ「家臣団を常住」させた城下町で楽市・楽座を大規模に行ったのか、なぜ「兵力の輸送を容易にしたことが商業の発展に繫がったのか、この教科書の記述だけではわかりませんが、それは、楽市・楽座を大規模に行うためには、それに反対して武力攻撃を仕掛けてくる寺社勢力と戦う必要があったからなのです。

 ですから信長が比叡山焼き討ちを行ったのは、宗教的・思想的問題からではなく、経済的かつ政治的な問題を解決するために、寺社を武装解除することが必要だったからなのです。

 信長は当時としては卓越した経済センスの持ち主でした。それは間違いありませんが、戦国大名の中でいち早く経済改革に取り組んだ道三との出会いが、そのセンスを刺激し、楽市・楽座という政策を生み出すきっかけになったのではないか、と私には思えてなりません。

 道三から信長へ、それは中世日本の経済改革の流れでもあるのです。

 

※本記事はPHP文庫『学校では教えてくれない日本史の授業[悪人英雄論]』より一部を抜粋編集したものです。

 

学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論

井沢元彦著
本体価格880円
道鏡は称徳天皇の愛人ではない。足利義満は暗殺された。斎藤道三は信長より早く、経済改革をしていた――英雄・悪人像の通説を覆す!!

著者紹介

井沢元彦(いざわ・もとひこ)

作家

昭和29(1954)年、愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学法学部卒業。TBS報道局記者時代に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞。退社後、執筆活動に専念する。独自の歴史観で、「週刊ポスト」にて『逆説の日本史』を連載し、『逆説の世界史』もウェブサイトで連載中。
主な著書に、『逆説の日本史』シリーズ(小学館)のほか、『なぜ日本人は、最悪の事態を想定できないのか』(祥伝社新書)、『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』『仏教・神道・儒教集中講座』(以上、徳間文庫)、『「誤解」の日本史』(PHP文庫)、『学校では教えてくれない日本史の授業』『学校では教えてくれない日本史の授業2 天皇論』『学校では教えてくれない日本史の授業3 悪人英雄論』(以上、PIIPエディターズ・グループ)などがある。

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