養老孟司氏が理系の知性と語り合う対談集『文系の壁』
『すべてがFになる』などの小説で知られる工学博士・森博嗣氏、手軽にバーチャルリアリティが体験できるデバイス(段ボール製)を考案した脳科学者・藤井直敬氏、話題作『なめらかな社会とその敵』の著者で、「スマートニュース」の運営者でもある鈴木健氏、『捏造の科学者 STAP細胞事件』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した毎日新聞記者・須田桃子氏。注目される理系の知性と、本当の理系思考とは「前提を問う力」だという養老氏との「前提」を揺さぶる4つの議論をお楽しみください。
では、養老氏からのメッセージです。
理系の対話で人間社会をとらえ直す
この対談集は若い世代の人たちと議論をした報告である。さまざまな会合に出てふと気づく。居合わせた人の中で自分が最年長だ、と。自分歳をとったことを、そのときにしみじみと感じる。
対談の背景は、いわゆる理科系の思考で、文科系とされる問題を考えたらどうなるだろうか、ということだった。理科と文科の違いなんて、べつに問題じゃない。そう思うこともあるが、そう思わないこともある。ではどういう場合にそれが問題になり、どういう場合には問題にならないのか。
時代を考えると、理科と文科の違いはしだいに不明瞭になりつつある。そういう感じがする。1950年代に英国のC・P・スノーが「2つの文化」ということを言った。これはいわゆる理科と文科を指している。ヨーロッパのエリート教育は本来ギリシヤ語とラテン語の古典教育を中心としていた。ところが自然科学の発展で理科系の学生はそういうものを学ばなくなった。学ぶ必要もないし、学ぶ暇もない。だから理科と文科はいわば常識がずれて、違う世界になってきたという主張である。
現在では計算機の発達で、方法的には理科も文科もクソもなくなった。そういってもいいかもしれない。私はむしろ自然と直面するか、実験室にこもるか、その違いのほうが大きいと考えるようになっている。一方をフィールド科学といい、他方を実験科学と呼べばいいかもしれない。
こういう問題自体を議論しても、あまり実りはないはずである。むしろいわゆる理科系の人と、さまざまな問題を議論してみれば、問題点がひとりでに浮かび上がるだろう。あとは読者が考えてくださればいい。そんなことを漠然と考えていた。
それでも森博嗣さんの場合には、ご本人が小説も書かれるということから、理科系の思考と文科系の思考という主題が直接の中心となった。内容は読んでいただければわかる。
藤井直敬さんと鈴木健さんは、広く社会の問題を考えている、「理科系」の研究者である。だからむしろ「理科系からみた社会」と言ってもいいと思う。STAP細胞の件だけが少し違った感じがするかもしれないが、須田桃子さんは理科系の背景を持った記者だから、まさに理科と文科の融合であろう。背景は現代社会での研究のあり方だから、理科文科のどちらというわけにも行かないのである。
若い世代はともかく、団塊以上のいわば古い世代は、理科文科の分け方がなんとなく身についているのではないだろうか。対談をしてみて思うことは、問題はおそらくそこではない、ということである。
1つはすでに述べた、野外か実験室か、ということである。どちらを採るかで対象が異なってくる。社会の具体的な問題も2つに分かれる。実験室的なものは、技術にかかわるもの、経済などである。どちらも人が意識的に行うことが中心だからである。実際の社会がどうなっているか、それを調べるのは野外の調査に似ている。調べてみなければわからないことがたくさんあるからである。
もう1つは方法である。これは計算機の発達が大きい。いまでは文科的な研究でも計算機を外すわけに行かない。ビッグ・デー夕が注目されるが、ここではさらにものごとの関連性という大きな領域が見え始めている。
どちらにしても忘れてはならないことがある。それは考え、行うのはヒトだ、ということである。どのような対象を取り上げ、どういう方法を使うか、それが結果を決める。でももう1つある。それはその過程で、その人がどう育つか、ということである。長い目で見れば、じつはそれがもっとも重要なのではないだろうか。