仕事とはなんだろう。大学に勤めている頃、よくそれを考えることがあった。
大学での仕事はいわば抽象的で、たとえば早い話が、自分の給料と働きの関係がよくわからない。さんざん働いたからといって給料が増すわけでもなく、怠けたからといってとりあえず給料が減るわけでもない。そういう仕事をしていると、経済というものが具体的にはよく理解できない。
そんな疑問を持ち続けて、人生の後半からは給料取りを辞めて、自分で働くようになった。それでもわからないのは相変わらずである。そういうなかで、一次産業に関わっている人の話を聞くと、たいへん興味深いことに気がついた。
私の仕事とはまったく違うけれども、似た面もある。どこが似ているかというと、結局はお金とは直接には関係がないところである。もちろん田んぼを耕して、米を作って、それを売るなら経済だが、でもやっている人にはあまりそういうつもりがないらしい。
その善し悪しはともかく、仕事に「入れ込んでいる」。研究も同じで、要するに入れ込むしかない。
そういう仕事が本当の仕事じゃないか。そのうちそう思うようになった。もともと私は虫が好きで、虫を採っていれば幸せである。これはもちろんまったく経済にならない。不経済といえば、これほどの不経済はない。
でも一次産業は虫探りとは違って、世の中の役に立つ。虫探りよりずっとすごいなあ。そう思うようになった。
もう1つ、私は敗戦時に小学校2年生だった。あの社会的な価値の転換を見てしまうと、モノに直接携わることの大切さがしみじみとわかる。
モノに関わらないと、むしろ不安でしょうがない。お金のやりとりだけでは、自分が宙に浮くような気がする。その気分に拍車をかけているのは、インターネットの普及である。
こういう時代に、モノに携わったり、ごくふつうの日常を研究している人に出会うと、ホッとする。そういう人たちを選んで、対談をさせてもらったのが本書になった。
それぞれの人の“モノとのつきあい方”について聞くと、日本の文化は優れた伝統を持っていることがわかる。
本稿では、養殖漁業家の畠山重篤との“漁業の未来”に関する対談を紹介する。
※本稿は、養老孟子 著『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
赤い海を青く
――「森は海の恋人」運動について、改めて伺いたいと思います。
【畠山】うちは父親の代にカキの養殖を始めまして、私は2代目です。水産高校を卒業して、18歳のときからずっと海で働いてきました。
カキの養殖は魚の養殖と違って、えさを必要としません。魚の場合は、売り上げの6割がえさ代として消えますが、カキはそういうことがないんです。種カキを海に入れると、プランクトンをえさにして自分で成長します。これはすごいことなんです。
しかし、東京オリンピック(1964年)の頃ぐらいから、気仙沼の海は少しずつおかしくなりました。海藻や魚が獲れなくなり、成長の悪いカキや、水揚げする前に死んでしまうカキが見られるようになりました。
赤潮も発生しました。カキは呼吸のために1日200リットルもの海水を吸っていますから、水と一緒に赤潮プランクトンを吸ったカキの身は赤く染まってしまいます。そういうカキは市場に出荷しても、気持ち悪がられて売り物にならず、廃棄せざるをえませんでした。
昭和40年代から50年代にかけて、カキ養殖は苦難の時代でした。多くの人が海に見切りをつけて陸に上がりました。
ただ、私は根っからカキが好きなんですよね。なんであんなゴツゴツしたものが好きなんだと聞かれても困るのですが、とにかく好きだからやめられない。養老先生も虫がお好きでしょう?
【養老】好きだからやめられないという気持ちはよくわかります。しょうがないんですよね。
【畠山】気仙沼の海の環境が悪化した原因はさまざまです。水産加工場から垂れ流される汚水、一般家庭からの雑排水、農業現場で使用されている農薬、手入れのされていない針葉樹林からの赤土の流出。
私たちはそれまで太平洋の方ばかりを向いて働いてきましたが、問題は海の反対側、つまり、ここの海に注ぐ大川流域にあったんです。
転機は、1984年、フランスのカキ研究者に招かれて行った視察旅行でした。フランス最長の川、ロワール川河口の養殖場を訪れ、見事に育っているカキと出合ったんです。その辺りの干潟の潮だまりに棲む生物群の豊かさにも驚かされました。海が豊かであるということは川が健全であることの証拠です。
ロワール川の上流には、ブナ、ミズナラ、クルミ、クリなどの広葉樹の大森林地帯が広がっています。その様子を見て、私は広葉樹の森が、海の生き物を育てているのだと直感しました。
帰国後、仲間の漁師たちに、豊かな海に戻すためには森と川が大切なのだと話したところ、70人ぐらいの集まりができました。
しかし、川の流域にはさまざまな人々の生活が横たわっています。先ほども言った通り、川が汚れた原因はさまざまです。大川を守りたいといっても、漁師の小さな集まりがすぐに解決策を導き出せるような生易しい状況ではありませんでした。
行政にも相談しましたが、川の流域全体をなんとかしてほしいと頼んでもダメなんですね。この辺りは宮城県と岩手県の県境なので、海は宮城県なんですが、山の方は岩手県なんですよ。
そんな中、大川の河口からわずか8キロの地点に「新月ダム」を建設する計画までがもち上がりました。大川は二級河川なので、宮城県がつくろうとしていたのですが、環境アセスメントは河口から陸側の範囲だけで行うというんです。海の環境アセスメントはやらないんです。
これは大変なことになると思って、大学の先生にも当たってみると、これがまたダメなんです。海は水産学、川は河川生態学、農業は農学、山は林学というふうにそれぞれ専門が分かれていて、川の流域をトータルでとらえて研究している学問がない。
【養老】日本は専門家が幅をきかせる国です。専門家は、人に口出しさせないことで自分の存在意義を確認しようとします。学者は自分の専門領域を守ることで、自分の地位を守ろうとしているんです。だから僕は「学界」とは呼ばずに、意地悪く「業界」と呼ぶんですが。
【畠山】「原子力ムラ」もその典型でしょう。
【養老】学生が学ぶべきは方法であって、対象じゃないんです。方法をちゃんと学べば、対象は何にでも使えるんです。解剖学は珍しく、対象ではなく方法が名前になっています。
解剖の方法を学べば、何でも解剖できる。昆虫もヒトも、解剖できますし、机や椅子も解剖できます。川の解剖だってできないことはない(笑)。
そんなふうに、やり方を教えれば、学校の教育も役に立つんですよ。法学部で法律を教えても、役に立たない。法律なんて、六法全書をみれば載っています。人文系の学問の場合には、言葉を使った論理の扱い方を徹底的に訓練すべきなんですよ。でもそれをやっていないでしょう。