乃木希典は戦下手ではない! 「旅順即肉弾」という誤解が生まれた理由
2016年06月29日 公開 2016年09月05日 更新
PHP新書『乃木希典と日露戦争の真実』より一部を抜粋転載
旅順陥落の意義
水師営の会見は、そのとき従軍していた外国新聞特派員によって全世界に報道され、深い感動をまきおこした。
乃木に勝者の驕りなく、ステッセルに敗者の卑屈なく、共に祖国の興亡をかけて、全智全能を傾け善謀勇戦した両将に対し、全世界は惜しみない賞讃の言葉を浴びせたのである。
ここで旅順陥落の意義を総括してみると、旅順陥落によりわが聯合艦隊は、旅順の封鎖という長期の地味な作戦から解放され、東征の途上にあるバルチック艦隊要撃の作戦準備に専念することができるようになったことが第一にあげられる。
これは同時に相手のバルチック艦隊の行動にも大きな影響を与えた。
太平洋艦隊(旅順艦隊のこと)が撃滅され、その根拠地となる旅順を失陥して、開戦当初と情勢が全く一変した今日において、なお当初の既定方針どおりバルチック艦隊(正式には第二太平洋艦隊と呼称)を極東に派遣する必要があるかということである。おそらくこのような疑念はロシア本国においても、またバルチック艦隊司令長官ロジエストウェンスキー中将以下の乗組員にも生じたであろう。
しかし、日本陸海軍を撃滅して日本を屈服させるという戦争目的をロシア帝国が放棄しないかぎり、バルチック艦隊の東航は中止されないだろう。
だが太平洋艦隊の消滅した今日では、東航中のバルチック艦隊の兵力では、日本艦隊より劣勢である。
常に相手側の兵力より圧倒的優勢をもって敵に臨むというロシアの伝統的兵力運用の原則により、ロシア海軍はさらに第三太平洋艦隊なる一艦隊を編成し、バルチック艦隊を追わせた。
しかしながらバルチック艦隊はこの新艦隊との合流を待ったため、極東への進出は一層遅れざるをえなくなった。
同艦隊の極東への進出の遅延は、それだけわが聯合艦隊に準備の余裕を与えることになり、日本海海戦の勝利へとつながったのである。
次に、旅順の陥落により、わが陸軍に兵力の余裕が生じた。これまで旅順の攻略に充てられていた第三軍の兵力が、そっくり、来るべき北方の日露決戦に使用できることになった。
このことはロシア軍にとって一大脅威であった。
敵の総指揮官クロパトキン大将は開戦前まで陸軍大臣をやっており、旅順要塞の建設に莫大な資金と資材をつぎこんだ責任者である。
彼は開戦直前の明治36年に、極東の状況視察のため日本までやってきている。もちろん旅順要塞の状況もつぶさに視察している。
彼は、旅順は金城鉄壁の要塞で難攻不落のものと確信していた。
彼の作戦計画では、クリミア戦役のセヴァストポリ要塞の戦例からしても旅順は短期間では落ちないものとされていた。
その要塞がわずか半年で落ちたのである。彼の夢想だにしなかったことである。
彼が、この旅順を落とした乃木という男を鬼神のごとく恐れたのは無理もない。これが奉天会戦における彼の作戦指導に重大なる影響を与え、彼の命取りとなったのである。
このように旅順の陥落が、日露戦争の命運を決めたところの奉天会戦および日本海海戦のわが勝利の直接間接の原因となったことは、何人も認めるところであるが、それ以外にも戦争の遂行に重大な影響を及ぼしたことを我々は忘れてはならない。
それは、日本およびロシアの戦費調達に及ぼした影響であり、さらにロシア国内の民心に与えた影響である。
戦費の調達については、日本もロシアもその台所の苦しさは同じで到底これを自国内だけでは賄うことはできなかった。
当時、日銀副総裁であった高橋是清(後の首相、蔵相)がロンドンに派遣され、公債の募集に苦労したのである。当初、この外債の募集はなかなか思うようにいかなかったが、旅順の陥落で日本の信用がぐっと高まり、英国および米国における外債の募集が円滑順調に進展したのである。
これに反して、ロシアはその同盟国であるフランスでその公債を募集していたが、旅順陥落を契機としてその人気が下落して、戦費の調達に一層苦労することになるのである。
またロシアを援助していたフランスまでが、旅順陥落後、日本公債に色目を使うようになってきた。
次に、この旅順の陥落は、ロシア国内における敗戦厭戦思想を一層蔓延させ、革命分子の活動を益々助長させていったことである。
あの史上有名な「血の日曜日」といわれた首都ペテルスブルクの冬宮広場の大虐殺事件は、旅順陥落後間もない一月二十二日の出来事である。
旅順陥落こそ日露戦争勝敗の分岐点といえるであろう。