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イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭

岡部伸(産経新聞社論説委員/前ロンドン支局長)

2016年08月30日 公開 2023年02月01日 更新

PHP新書『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』はじめにより

 

英国人はなぜEU離脱という変化を選んだのか

英国に昨年12月から居を構えた。勤務先の産経新聞社からロンドン支局長を命じられたからだ。外国で暮らすのは米国、ロシアに次いで3か国目だが、最も心が和む。島国であり立憲君主制という政治体制や気質や文化も日本と共通するからではないかと感じている。

赴任からおよそ半年経った2016年6月23日、世界を激震させる「大事件」が起きた。

英国民がよもやの欧州連合(EU)からの離脱を選択した国民投票である。深化を続けてきた国境のない欧州統合の壮大な実験は曲がり角に立った。世界中が残留を望む中で、先進国で最も因習を大事にするといわれる英国人がなぜ離脱という変化を選んだのだろうか。

離脱派勝利の背景に、グローバリズムの「負け組」となり、過激な排外主義に熱狂して怒りに燃える白人労働者の反乱があった側面は否めない。情緒に流され、一部のポピュリズムの政治家に煽られた英国版トランプ現象もあった。しかし、それだけでは歴史的な大転換を説明しきれない。白人の中間層やサイクロン式掃除機で名高いダイソンの創業者、ジェームズ・ダイソン氏ら「勝ち組」にも「離脱しても貿易に影響はない」と主張した者もいた。

「経済的損失」を覚悟の上でEUからの訣別を選んだ英国民が抱える問題は、世界全体に共通する普遍性があるようにも思える。

その問題とは、第二次大戦後、旧植民地からの移民に国籍を与えてきた寛容さを不寛容に変質させた移民の増加、製造業の衰退、経済的に厳しい地方と繁栄する大都市の格差拡大、エリート層とグローバル化で取り残された労働者層の分断、扇動する政治家などだ。

さらに残留派が上回ったスコットランドや北アイルランドでは、EU残留のための独立の動きが始まった。それぞれの内向きのナショナリズムは、300年以上続いた英連合王国を崩壊させる危機さえはらんでいる。

EUの構造的な問題も浮き彫りになった。痛感したのは、離脱派・残留派ともに、経済統合を進めて平和を導くという高邁な理念を掲げるEUへの不満を抱えていたことだ。各国の閣僚を経験したエリートに牛耳られることに、「大陸欧州とは一線を画す」誇り高い英国人の我慢は限界だった。独仏のEUは英国の問題提議に耳を傾けないので千載一遇の「独立」チャンスに賭けようという離脱派の訴えが、EUに残って改革しようという残留派の主張よりも民意を得たようだ。直接選挙を経ずして選ばれた巨大な官僚機構に反発が起きたが、それは英国がEUの前身のEC(欧州共同体)に加盟した当初より欧州市民から指摘されていた欠陥でもあった。EU改革こそ待ったなしだろう。

ドイツの重しとして存在感があった英国が離脱すれば、EUのパワーバランスが崩れる。

EU内でドイツが遠心力を加速すれば、加盟国の間で「ドイツ警戒論」が深まり、EUが解体に向かうシナリオさえ排除できない。

そこで漁夫の利を得るのは冷戦の敗者ロシアに違いない。EUがウクライナ危機でロシアに科している制裁の足並みが乱れることは避けられないからだ。大戦後、約70年間、ソ連と後継国家ロシアに対する恐怖は、西欧全体に共通してきた。対露最強硬派の英国が抜ければ、EUがレベルダウンし、鳴りを潜めていたロシアが再び手を伸ばしてくる。旧東独出身のドイツのメルケル首相と親交が深いプーチン大統領が、ドイツを足場にして英国なき欧州に進出することが懸念される。ロシアが台頭する足音が聞こえてくる。

冷戦終結後の90年代終わり、EUと北大西洋条約機構(NATO)が進めた東方拡大は、欧州に平和と安定をもたらすといわれた。しかし、ワルシャワ条約機構を解体させ、衛星国だった東欧や、ソ連を構成した共和国だったバルト三国まで「西側」に回帰させた東方拡大は、冷戦の敗者ロシアを追い詰め、プライドを傷つけた。その後、かつてソ連と中央アジアの覇権を競った英国に大量移民が流入、英国はその流れを止めようとEUからの訣別を余儀なくされた。NATOに対抗する軍事機構、ワルシャワ条約機構が91年のソ連崩壊に伴い解体して四半世紀。プーチン・ロシアの復讐劇が始まったように思える。

イギリスの現在の首相であるテリーザ・メイ氏は、内相時代に元ロシアの情報将校、リトビネンコ氏毒殺事件の最終調査報告において、プーチン大統領関与の可能性を公表した。そしていま、メイ首相は潜水艦発射型弾道ミサイル「トライデント」更新を巡る議会演説で「ロシアの脅威は現在もある。安全保障で妥協しない」と訴え、核戦力を通じて大国としてロシアとの対決姿勢を鮮明にした。さながら21世紀のグレート・ゲームの趣を呈して来たように思える。このような視点からも英国のEU離脱騒動を考えなければならないだろう。

メイ新首相は、「離脱は離脱」と再投票はせずに「世界で最も複雑な離婚劇」(フィナンシャル・タイムズ紙)の交渉を2017年から始める。単一市場に加わりながら「人の移動の自由」の制限を求める交渉の行方は不透明だ。だが、カナダや日本、米国など27カ国が7月末までに英国と自由貿易協定を結ぶ意志を表明している。英国は伝統のインテリジェンスと外交で衰亡せず大国の地位を保つと期待したい。

 

岡部 伸[おかべ・のぶる]
1959年愛媛県生まれ。産経新聞ロンドン支局長。立教大学社会学部社会学科を卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁などを担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て1997年から2000年までモスクワ支局長として北方領土返還交渉や政権交代などを現地で取材。その後社会部次長、社会部編集委員、大阪本社編集局編集委員などを務めたのち、2015年より現職。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書、山本七平賞受賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)がある。

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