猫のように自分らしく生きる幸福
没後100年、夏目漱石の名言
まっすぐな喧嘩をしてみる。
他人との無駄な衝突は避けたいものです。といって、その場で自分を曲げてばかりいては憤懣やるかたないでしょうし、それは必ずどこかで爆発します。
明らかに自分に非がないといえる場合ならば、事態を呑み込んでお腹がふくれてしまうまえに、さらっと本音を口に出してみてはどうでしょうか。時間が経ってから深刻そうに言うと、無駄に大ごとになってしまいますが、すぐにその場で、何気なく言ってしまえば、たいていその場だけで収まるものです。
大事なのは、感情的にならずに、あくまですぐその場でさらっと、ということです。そうすれば、たとえそのとき揉めたとしても、あとくされがありません。
相手を貶しめるためでなく、自分がただこう思っただけだ、ということを伝えられるだけで、すっきりするものですし、言いたいことを言い合った相手とは前よりずっと打ち解けて仲良くなれるかもしれません。雨降って地固まる、と昔から言うではありませんか。
そのままの自分で生きる。
誰だって他人から尊敬されたいと思います。でも、そのために自分を大きく見せようとするのは、結局自分を苦しめるばかりです。やってもいないこと、できもしないことを、「やっている、できる」と言えば、あとでうそつき呼ばわりされるでしょう。また、身の丈を超えて生活水準を上げようとするなら、どこかで無理が生じて、あとでもっとずっと苦しい生活を強いられることになりかねません。
仮に自分を「金きん」であると思ったとしても、それをわざわざ他人にひけらかそうとするのは見苦しいものです。自分の輝きが「金」のそれなのか「真鍮」のそれなのかを決めるのは、他人の判断として放っておけばよいのではないでしょうか。それに、華美な輝きという点ではたしかに金に及ばないかもしれませんが、真鍮の輝きには真鍮なりのよさがあります。それを金(メッキ)で覆ってしまい、磨くとすぐにはがれてしまうくらいならば、はじめから真鍮としてピカピカに磨き上げていった方がよほど美しいものです。
勇気を出して落第する。
前へ前へと追い立てられるような日々を送っていませんか。うしろをふりかえるどころか、ふと横を見る余裕すらない毎日。自分が今なにをやっているのかもよくわからないまま、とりあえず目の前のことをこなすだけ。なんとかそれで仕事はまわっているとしても、自分がやっていることの意味がわからないままでは、自分の能力やスキルは上がりません。ときに立ち止まることも必要です。
ただしそれは、がんばって長期休暇をとってリゾートでリフレッシュする、というような意味ではありません。より大切なのは、仕事を忘れることではなく、今の仕事に一体どういう意味があるのかを見つめなおす時間をとる、ということです。それは一見「落第」のように時間を無駄にすることに見えるかもしれませんが、最終的には、わかったふりをして先へ進むよりずっとよい結果をもたらします。漱石自身は、大学で落第することで大きく成長することができました。
忘れられないなら、あえて見つめる。
自分のであれ他人のであれ、不幸にはできるだけ近寄りたくないものです。しかし、一切不幸に見舞われない人生というものはありえないでしょう。自分に非があるとないとにかかわらず、自分自身や近しい人が苦しまなければならない状況は必ず訪れます。
自分の力ではどうすることもできない状況だとします。もちろん落ち込むことでしょう。深く、深く─。ちょっと落ち込んだときなら効き目のある気晴らしなど、手をつける気にもなりません。きっとこのことが、自分のこれからの人生でずっと忘れられない暗い思い出になる予感がします。
もしそうなら、忘れることは諦めましょう。忘れようとする努力は、記憶をより深めるだけです。それならば、最初からその不幸を正面から見つめてみるのです。ただし、そこから少しでも将来に役立つことを探すつもりで。めったにない不幸であればこそ、大きく生かせる教訓も見つかるかもしれません。
PHP文庫『漱石と猫の気ままな幸福論』より
著者紹介:伊藤氏貴(いとう・うじたか)
1968年、千葉県生まれ。文藝評論家。明治大学文学部准教授。麻布中学校・高等学校卒業後、早稲田大学第一文学部を経て日本大学大学院藝術学研究科修了。博士(藝術学)。2002年に「他者の在処」で群像新人文学賞(評論部門)受賞。テレビ番組制作のアドバイザーなども務める。主な著書に、『奇跡の教室』(小学館)、『Like a KIRIGIRISU』(KADOKAWA)、『奇跡を起こすスローリーディング』(日文文芸社)、『告白の文学』(鳥影社)などがある。