"次期主席"習近平と日中関係
2010年12月06日 公開 2022年12月22日 更新
“中国のゴルバチョフ”?
中国共産党第17期中央委第5回全体会議(五中全会)は10月18日に閉幕したが、この重要イベントにぶつけるかのように会議最中の同月16日に成都、西安、鄭州、翌日からは綿陽と武漢、徳陽などで過激な反日暴動が起きた。公安、軍の一部が上海派と組んでの演出説が強い反日デモだった。
五中全会は大波乱が予測されたが、いざ蓋を開けると第12次5カ年計画の基本方針は原案どおりパス、また今後5年間の経済・社会・民生発展方針も難なく可決された。「政治改革」は温家宝首相の演説だけ。もっとも注目された権力闘争の決着は、胡錦濤ら主流派の計画に齟齬が生じ、子飼いの李克強副首相の躍進はならず、逆に「太子党」(高級幹部の子弟ら)の習近平が上海派の強い後押しによって軍事委員会副主席に選出された。
これにより今後の政局運営を予測するならば「胡錦濤(団派)」vs.「上海派」という権力闘争の構造バランスに大きな変化が生まれた。どちらつかずの太子党を上海派が引き寄せ、これまでの三派鼎立から上海派+太子党連立へと流れが変わりそうなのだ。
「和諧社会」をめざし所得の均質化、安定した社会を目標としてきた胡錦濤政権だったが、改革路線に内心で反対するのは、利権構造を活用して富裕層を増やし、共産党員の特権維持を唱える上海派と太子党だった。彼らは胡・温執行部の「改革」に敵対的なのだ。
「反日教育」を推進し、矛盾を日本に向けることで政権を維持した江沢民のあとを受けた胡錦濤政権は、独自のカラーとして「親民路線」というポピュリズムに訴え、毛沢東思想への回帰を看板として綱紀粛正、汚職追放も訴えた。うわべだけとはいえ、毛沢東は「誠心誠意人民に奉仕せよ」といった。
胡錦濤は「政治改革」を強調したが、唱えれば唱えるほど利権で太る上海派が反発し、汚職構造に手入れをすると、特権にぶら下がる太子党も上海派に便乗して反発してきた。このため権力中枢は各派入り乱れ、ささくれだっていた。胡錦濤とコンビの温家宝首相は災害が起きるとすぐに被災地へ飛んだりして庶民の人気は高いが、党内の評価は低い。温は「影帝」といわれた。
習近平の軍事委員会副主席決定は、政治闘争としてみると上海派の勝利に終わり、胡錦濤指導部はレイムダック入りする懼れがある。
習近平は2年後の第18回共産党大会で、党総書記、軍事委主席となり、3年後の全人代で国家主席に就くと予測される。つまり三権独占が射程に入った。「新しい皇帝」(英誌『エコノミスト』10月23日号表紙)の誕生が日程にのぼったのである。
しかし日本のマスコミの評判とは裏腹に、世界のチャイナウォッチャーの評価は芳しくない。香港『りんご日報』(10月21日付)は、習近平の軍事委員会副主席入りは「ダークホースが王権を手にしたが、彼は高級幹部一族の太子党所属であり、特権階級の権利を擁護し、独裁体制を維持させることに汲々とする連中が支持基盤であるかぎり、大変革なんぞありうるはずはない」と冷淡に分析して、続けた。
「習が『改革派』『開明派』として知られた習仲勲の息子であることだけを理由に、政治改革に大なたを振るい、“中国のゴルバチョフ”になるかもという淡き期待は、消し飛ばされるだろう」
五中全会直前まで中国専門家の多くは、国民から嫌われる上海派の影響力を削ぐために、胡は習近平の軍事委副主席就任をもう1年先延ばしにして、腹心の李克強との抗争をコントロールしつつ、政権維持につなぐだろうと予測していた。五中全会直前にノーベル平和賞が民主活動家の劉暁波に決まったことも、国民の上海派、太子党への反感と怨念を爆発させる絶好の機会となった。中国国内の世論が明瞭に分裂し、党はマスコミを抑えノーベル賞に不快感を示したが、民衆はネットやツイッターを通じて万歳を叫んだ。
尖閣諸島近海での日中間の衝突を奇貨として江沢民派(上海派)が、「反日」を政治的梃子に活用しはじめたため、途中から胡錦濤らの思惑が狂ったのである。「中華思想」という麻薬は大衆を刺激するのだ。
反日暴動の背後でリモート・コントロールしたのは明らかに「院政」を敷く江沢民のグループだ。思い出されたい。北京五輪と2009年国慶節に胡錦濤と並んでひな壇に立った江沢民は、「軍を押さえているのはこの俺様よ」と無言のうちに画面を通して訴えた。何の肩書もないにもかかわらず。
日本の一部が期待した李克強は乱世の指導者としては線が細く、事務屋あがり。あの修羅場、中南海の権力闘争の火力に燃えつきて、次の首相さえ危なくなったようだ。李克強とコネが強かった小沢一郎の政治力も、日本では沈没寸前だ(李克強は小沢の家にホームステイした経験がある)。リリーフの暫定首相に王岐山(副首相)らの名前が早くも取りざたされている。10月24日、G20の帰路、ガイトナー米財務長官はわざわざ遠回りして青島に立ち寄り、王岐山と密談しているほどだ。
軍のウケは非常によい
さて、次期皇帝・習近平とはいかなる性格の、どのような特徴を秘めた人物なのか。日本のマスコミは「協調的」「穏和」などと褒めそやすが、はたしてそうか。当面、にこにこと粧っているだけで、権力を掌握するまで本当の姿をみせないだろう。
習の父親は副首相を務めた革命元勲のひとり習仲勲だが、彭徳懐将軍の側近だったため、毛沢東に睨まれて失脚を余儀なくされ、じつに16年を失意に暮らした。その困窮と絶望の日々に少年から青年時代を過ごした習近平には、一種ニヒリズムが漂う。遅れて清華大学を卒業し、人民解放軍秘書長のオフィスで3年間、このときに人脈を増やしたものの目立つ存在ではなかった。無名だった。しかし、長身で落ち着きがあり仕事もこなせるので、福建省省長から浙江省書記へ大出世(省長は書記より二段階格下)、そしていきなり上海書記に抜擢されたのも、背後に江沢民がいたことは明瞭である。
上海への栄転理由はといえば、胡錦濤が、上海書記だった陳良宇の悪質デベロッパーと組んでの乱開発などのスキャンダルを捜査させ、逮捕起訴したため。この陳良宇失脚のタイミングでは、上海コネクションに無縁にみえる人物を選定する必要に迫られた。そこですぐ上海の南、浙江省書記でめきめき頭角を現わしていた習近平が江沢民の右腕、曾慶紅の眼鏡にかなったのだ。当時の曾慶紅は国家副主席で、日本にも何回か来た知日派、謀略家、そしてニヒリスト。息子を豪州へ移住させている。習近平は、この江沢民―曾慶紅ラインの強い引き立てで上海書記から、次はいきなり中央へ二段階特進、政治局常務委員となった。大躍進に次ぐ大躍進である。
しかし、習近平はこれという指導力もなく、官僚的ボス体質が強い。江沢民のミニチュアと囁かれる。けれども習近平には若き日の軍歴があり、夫人の彭麗媛が軍幹部(少将で専属歌手)であるために軍のウケは非常によい。
将来の主席コースに乗った習近平は箔を付けるためやたら外遊が多く、真っ先に行ったのは北朝鮮。日本に来たときは、ごり押しして天皇陛下に拝謁したのは周知のとおり。
ところが、メキシコでは酔った勢いで「たらふく食っている連中が、革命の輸出をしていないわが国を批判するとは何事か」と罵詈雑言を並べ、世界のマスコミがこの醜聞を採り上げた。香港マスコミでは彼の愛人スキャンダルが俎上に載っている。この人物が2年後に党の総書記+軍事委員会主席となり、2013年3月の全人代で「国家主席」+「国家軍事委員会主席」のポストも押さえると、完全に統帥権を確保することになる。中国はさらに軍事路線を強め、軍の支持が強い政権となるために軍事的冒険に打って出てくる危険性も、現政権より高くなる。
「中国人にとって反日は娯楽」
さて、尖閣衝突直後とノーベル平和賞騒ぎ直後との二回に分けて、なぜ過激な反日デモが起きたのか?
そもそも中国における反日デモは「官製デモ」、つまりヤラセだ。
第一に、反日デモが特定の地域でしか起きておらず、もし全土的に反日感情が存在するとすれば、もっとも尖閣諸島奪回の取り組みが勇ましい香港(『保釣行動連合会』本部がある)や、同調組のいる台湾でも起こるはずなのに、尖閣衝突直後はともかく、第二波の動きがなかった。北京、上海、広州はいうに及ばず、大連、瀋陽、青島、重慶といった日本領事館所在地での動きも皆無だった。
第二は、異常な警備だ。05年の反日暴動のとき、警備隊はジェスチャー的に出動したが、日本大使館への投石も黙認し、まじめに警備をしなかった。今度はたかだか数千人のデモに出動した。暴動の翌日からも数百人の警備隊が、日本企業周辺を厳重に警戒した。明らかに、反日が反政府暴動へ転換することを恐れての措置である。
第三に、尖閣の衝突そのものが仕組まれた謀略だと米国情報筋や外務省筋はみている。トロール船長や乗組員は、釈放・帰国後は政府系メディアだけによる簡単な取材だけで、一般との接触が禁止された。
まして、第二波の成都、鄭州、西安、綿陽の連続的「反日」暴動は、単純に「反日」とみるのは危険である。民衆の不満のガス抜きが主目的、裏にあるのは上海派による権力闘争で、胡錦濤への強烈な嫌がらせだった。
第一波は、「尖閣は中国領である」と開き直り「船長の即時無条件釈放」を要求しての反日デモだった。公安の指示どおり参加者は動き、外国メディアだけが報道した。ノーベル平和賞騒ぎから目をそらすための反日デモが、第二波。党内左派と上海派が窮地を脱するために、もう一芝居を打ったためだ。毛沢東はいったではないか。「国内矛盾を対外矛盾に転化せよ」と。
若者たちの政府への不満、党と中国のマスコミがノーベル賞を評価しない矛盾に気がつき、なにか憂さ晴らしをしたかった。ネット上に集合場所と行進順路まで掲げられ、いつもなら当局は瞬間的に削除するのに西安、成都、鄭州ではデモの呼びかけの書き込みを削除しなかった。
10月16日の成都でイトーヨーカ堂と伊勢丹を襲ったデモ隊の、プラカードに強く引っかかった。一つは「沖縄解放、琉球奪還」という、中華思想まるだしの侵略性が書かれたプラカードだ(収回琉球、解放沖縄)。これは新華社系『環球時報』が代弁した「沖縄独立支持」の論調と軌を一にしている。衣の下に鎧がみえた。同紙は「沖縄独立運動を日本政府が抑圧している。沖縄人民は独立を志向している」と主張している。将来の布石を打っているのだ。
もう一つは「日貨不買、中国製品を買おう」という横断幕の周りに「索尼、松下、豊田」と明らかに日本企業を名指ししたプラカードがあったことだ(「索尼」はソニー)。中国経済の発展にもっとも寄与した日本企業が、今度は襲撃目標に転化している。そして、これらの看板を掲げていただけの理由で、中国人経営の代理店などが襲われた。まさに、政治への不満とノーベル賞騒ぎのガス抜きである。民主化、自由、人権、法治を求める中国の若者の不満の発散場所を、人工的につくる必要があった。
第四は、日中関係を「友好から対立へ」と、尖閣カードに反日デモを重ねて胡・温執行部を突き上げようとする上海派の陰謀の影が濃い。デモ隊の横断幕、プラカードをみれば、「統一された用語」しか並んでいないことに留意されたい。公安が用意したものだ。
第五は、世界のマスコミに対して問題のすり替えを行なう。人民元不正操作で怒り心頭のアメリカ、ノーベル賞でいみじくも浮き彫りになった人権問題で西欧の対中不信が増大しており、ここで中国としては使い勝手のある反日カードをもう一度用いて、危機を乗り切ろうとしたわけだ。ノーベル平和賞を犯罪者に与えたことはノーベル賞を冒涜する、といっても説得力がなかったが、日本が悪いといえば、中国人の劣根性(悪い根性)を引き出せる。義和団の乱のように、ナショナリズムを権力側が利用するのだ。
第六は、同時に起きた炭坑事故の悲惨(いつも起きているのに、なぜ今回だけかといえば、チリの奇跡的な鉱山作業員33人の生還に比較し、中国の鉱山事故は毎年数千人の犠牲)に象徴されるような、国内の悪政を狡猾にすり替え、ともかくいつものように都合の悪いことに蓋をするために、日本を梃子に利用する。
かつて米国ジャーナリズムが書いていた。「中国人にとって反日は娯楽だ」。ポール・クルーグマン(ノーベル賞経済学者)が、中国の対日レアアース禁輸措置に関して『ヘラルド・トリビューン』(10月19日付)に寄稿し、これはWTO(世界貿易機関)違反であり、世界が合意したルールを守らず人民元を不正に安く操作する中国は「ならず者経済大国」だと決めつけた。人気作家の韓寒が冷ややかにいった。「反日はマスゲームだ」と(そして当局はこの書き込みを瞬時に削除した)。韓寒は中国の若手人気作家でカリスマ的存在。若者の心理の先端、現代中国の風俗を描き、『TIME』は世界を動かす100人の1人に彼を撰んだことがある。
第七は、重要な何かを隠す目的が秘められていた。というのも、10月17日に反日デモが四川省の綿陽に飛び火した。警備の車両がひっくり返され、通行中の日本車が襲撃され、ソニー、パナソニックの看板がある商店、日本料理店等が襲われた。明らかに「反日」に名を借りた反政府暴動である。
綿陽は08年5月の四川省大地震の折、もっとも被害が大きかった地域の一つ。土砂崩れで河の流れが変わり、突然湖が近くに出現、決壊を防止するため軍が派遣された場所にも近い。
なによりも綿陽には(23日にデモが起きた隣町の徳陽も)核物理学センターが、また付近には核兵器、ミサイル開発の秘密施設が立ち並び、軍事技術の派生からエンジニアが確保しやすく、近年では電子部品などの工場進出も目立った。被災後の復旧が遅れ、貧困にあえぐ地域住民の不満は爆発寸前。なんでもいいから暴れるきっかけがほしかった。油がまかれたところに火が投げ込まれたのだ。
こうみてくると、習近平政権が誕生しても「反日色」も強まることになる懼れが高い。〈文中・敬称略〉