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生き方

他人の評価で揺らがない「自分にとっての幸せの基準」の持ち方

ジョン・キム(作家)

2026年05月22日 公開

頑張って生きているのに、なんだか心が満たされない。それは、もしかしたら自然体でいられていないからかもしれません。この記事では、内面と外面が一致した穏やかな生き方、そして自分だけの幸せの基準を見つけるヒントを書籍『媚びない人生』より紹介します。

※本稿は、ジョン・キム著『媚びない人生』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

自然体とは、内面と外面が一致している状態

自然体で生きていく境地とはどのようなものか。一言でいえば、穏やかである。静かな海のようなイメージが広がり、何が起きても揺るがない。いつでも平常心でいられる。あらゆるものを受け入れ、包み込める包容力を手に入れられる。たとえ驚くようなことが起きても、起きたものをきちんと見て、それに対してどう対処すればよいのかがわかる。

乱れない、ぶれない感情を手に入れることができる。縛られない、とらわれない、こだわらない。素直な気持ちで人に接することができる。他者の評判ではなく、自分の直感で相手を評価できる。

感情的な乱れは、基本的にはなくなる。瞬間的にあったとしても、元に戻す修正能力が発達する。だから、すべての瞬間に幸せを感じられる。

実際、私は自然体の大切さに気づいた小学校時代から、自分が幸せではないと感じた瞬間は一度もない。もちろん本当の意味で悩み、苦しんだことも間違いなくたくさんあったが、一切覚えていない。そういうことは、忘れてしまうのである。

成人して以降は、あらゆる場面で幸せを感じるようになった。今、どれほど自分が幸運で、恵まれていて、幸せなのか、常に感じながら生きてきた。本当である。

実はもともとの自然体の自分と、今の自分との間にギャップがあることに、高校時代や大学時代に気づく若者たちもいる。そして彼らは、そのギャップを社会に出てからますます強く感じることになる。社会では、学校以上にありのままに過ごすことは許されないからだ。

社会では、相手がいる。会社や所属する組織がある。査定があって、給料がある。ここで家族ができたりすれば、もはや自然体の自分など意識していられなくなる。ますます演じる自分に慣れてしまう。不自然さが当たり前になっていく。

しかし、実のところ、不自然でいることは、社会の中では自然なことでもある。多くの人が不自然を当たり前に受け入れているので、ギャップを感じながらも、なんとなく生きてしまうことになる。内面と外面が一致しないまま過ごせてしまうのだ。

逆にいえば、自然体でいること、内面と外面を一致させるためには、たいへんな努力が必要になるということである。社会で生きながら自然体でいることは、本当はすごく難しいこと、意識的に努力しなければならないことなのだ。

だからこそ、そのためにはどうすればいいか、を考える必要がある。私がたどり着いた最終的な結論は、強さがなければいけない、ということだった。内面的な強さ、すなわち感情、思考、言葉、行動の4つの力である。そしてこの強さを身につけていくためにも、大切な認識がある。忍耐が求められるということだ。

それを理解しながら、時間をかけて内面的な成熟、強さを培っていくことである。自分に力がないうちは、自然体とは違う反応をしてしまう。本当はそうは思っていないことに相づちを打ってしまったり、上司に媚びた言葉を使ってしまったりする。

しかし、内面的な強さが生まれれば、そういう行動はなくなっていく。相手を包み込むような行動ができるようになるし、未来に怯えることもなくなる。ペルソナのかりそめの人生の持つニセモノの穏やかさではない、本当の穏やかさを手に入れることができる。

まず今、やるべきことは、実は内面と外面が離れていること、ギャップがあることを認識することである。そして、それを一致させるために、もっといえば、子どものとき、生まれたときの自然体としての自分に戻すために、自分は何をすべきかを考え、その取り組みを進めることである。

自然体になるのは、簡単ではない。時間がかかるかもしれない。しかし、それを成し遂げられたなら、そこから本当の自分の人生を始められる。社会によって乱された自分を、本当の自分に戻すのだ。

 

幸せの絶対的な基準を持つ

なぜ、自然体で生きていくことが必要なのか。もちろん、穏やかで、幸せな人生を手に入れることができるから、であるが、ではなぜそんなことが可能になるのか。自分の世界に向かえば向かうほど、純度の高い自分の人生を生きていくことができるからである。

世の中に貢献し、生きがいを見つけたい、と語る人は少なくない。しかしその前に、自分に与えられた人生というものについて、しっかり自分と向き合い、いかに成熟したものにできるか、という問いかけが先に来ると私は考えている。そうでなければ、社会に何かを提供することなど、果たしてできるだろうか。

相手への喜びや社会への貢献はもちろん大切である。私自身、自分が接する人たちすべてにポジティブなエネルギーを与えたいと思っているし、金銭的な価値に左右されないやりがいを今の仕事には感じている。

しかし、前提条件としてなければならないのは、自分自身が幸せをしっかり享受できていなければいけない、ということだ。そうでなければ、自分が提供するものに対して、必ず対価を求めてしまうようになる。自分自身が、圧倒的な幸せを感じていれば、そんなことはなくなる。

だからこそ重要なのが、自分自身で幸せの絶対的な基準を確立させることだ。若い人の中には、たくさんの資産を持つことが幸せだと考えている人も少なくない。

では1億円の資産を持つ人と、100億円の資産を持つ人では、どちらが幸せだろうか。人気企業に勤める人と、超人気企業に勤める人では、どちらが幸せだろうか。

1億円の資産の人は、ある人から見れば幸せに見える。しかし、彼は100億円の資産の人を前にすれば、果たしてどうだろう。一流企業も同じだ。実は、きりがないのである。金銭やモノによる価値基準は、極めて相対的なものなのだ。

実際、巨額の資産を持ちながら幸せを感じられない人は少なくない。しかも、社会的な基準はどんどん変化していくのだ。こうしたものを幸せの基準として持ってしまうと、常に社会に振り回され、自分で完結できない。

それこそ、家族が一緒にいて、ご飯を食べることだけでも十分幸せだと思う人は、もしかすると、1億円の資産を持つ人よりも、人気企業に勤める人よりも幸せかもしれない。余計な欲を持つこと、誰かが設定した基準を意識してしまうことだけで、幸せは遠ざかっていくことも多いのだ。幸せの基準を自分で設定できる人こそ、自分で幸せをコントロールできる人なのである。

だが、それは基準を下げれば幸せになれる、ということではない。生まれてから経済成長を経験していない今の若い人たちには、自己防衛として幸福のスタンダードを下げていくことを得意としている人もいるが、それは自分の将来の可能性に対して失礼なことである。

むしろ、幸せの基準は上げるべきだ。それは難しいことではない。幸せの基準の再設定は自分の中で完結できるのだから。それこそ、純度の高い自分の人生を生きていく、人生を成熟させていく、ということだ。問われるのは、自分自身、なのである。

実のところ、生きていく上での最大の喜びは、自分自身の成長実感に他ならない。これは多くの社会人が納得するところだと思う。そしてこれは、社会の中での成功とか、お金持ちとか、そういう次元を超えたものだ。このことに早く気づけた人は強い。そして自分をより成熟した状態に持っていくことこそが、すなわち大きな幸福感を生むのだ。

だからこそ、まずは自分の未熟さを理解しないといけない。その未熟な自分が、成熟に向かうことを実感できたとき、大きな喜びを感じることができるのだ。

人間として自分を深め、知識や教養を得、人生の意味について深く理解をし、自分自身について知ろうとし、他者についてより深く理解する感性を得、思考力や行動力を手に入れていく。こうした実感こそ、大きな幸せなのである。

必要なことは、何より自身の成長を意識することだ。未熟から成長に向かうプロセスこそ、生きる意味だと気づくことである。これを懸命に続けられた人生こそ、素晴らしい人生だと私は思っている。本当の幸せは、この過程にこそ潜んでいる。

実は薄っぺらな物欲の満足や、基準が社会にある自己顕示欲の充足、さらには本来の自分が願ってもいなかった自己実現に、幸せが潜んでいるわけではないのだ。

 

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