史上最年少記録を連発する稀代の棋士・藤井聡太は、その「個性」と「才能」をいかに育んだのか
2018年01月31日 公開 2020年07月22日 更新
プロは人とは違う自分の型を持っている
最初にひと目その将棋を見たときから、藤井の才能はこれまで見た子どもと比べてもずば抜けたものがありました。
たとえば初段でも、さまざまな初段があります。藤井は、すばらしい妙手、新手を指す代わりに、指し手の切れ味が鋭いゆえに自ら転んでしまうこともある、というタイプの初段でした。
私の経験では、そちらのほうが才能は伸びやすい。平均して80点ぐらいの手を積み重ねていくよりも、自分だけの得意を持っている一方でうっかりやポカも出るようなタイプです。それが「個性」です。
ずっと平均的にうまく、どこを取っても水準以上─もちろんこれも立派な個性です。
だけど指導者からすれば、その先にある、その子だけが持っている「才能」を見つけにくい。器用すぎるために、本人も自分の「才能」に気づいていないケースも多くあります。
対して、大きな穴があるタイプは、それ自体が「個性」です。たとえば詰将棋を解くのが遅い。これは短所ですが、それだって「個性」です。では自分の何が長所なんだろう。
そう考えることが自分だけの「才能」を見つけ出すヒントになります。短所と長所は表裏一体です。
プロは将棋のことを何でも知っているからプロなのではありません。人とは違う自分の型を持っている。ある部分だけは誰にも負けないものを持っているからプロなのです。
藤井人気によって、彼の通っていた幼稚園の「モンテッソーリ教育」という独自の教育方針がにわかに注目されました。子どもらの五感を適度に刺激し、暗記ではなく経験に基づいて質量や数量の感覚を養って、子どもの自主性、独立心、知的好奇心を育む方法です。
他人と同じことをすることで安心するタイプもいれば、他人とは違うことを試みたがるタイプもいます。藤井は明らかに後者なので、個性を伸ばすという意味で、その幼稚園の教育方針は合致していたように思います。
コンピュータが選ばない勝負手を指す
藤井について「AI(人工知能)棋士」という表現をされることがあります。「時代の申し子」という意味でしょうが、少し違うなと感じます。彼がここまで強くなった背景には詰将棋で培った地道な努力があり、人との対戦で身につけた感性や勝負術があります。
これはきわめてアナログ的なものです。
藤井の際立って優れた才能は終盤力と同時にそのひらめきにあります。誰もが思いつかない、あっと驚くような派手な手。そして、一見合理的でなく、プロが「え? こんな作戦があるの?」と驚くような、強烈な個性を感じる感性と構想力。
それを見事にまとめあげる身体能力の高さ、つまり自力の強さです。
ひらめきは、困ったときや極限状況に追い込まれたときに、直感で思い浮かぶものです。
その人の根底にある勝負観や人生観がかかわるのではないかとも思います。それがなければ、そもそもひらめきません。
一例を挙げるならば、29連勝のうちの20連勝がかかった澤田真吾六段との対局です。ほとんど完勝に近い連勝記録の中で、ギリギリの崖っぷちまで藤井が追い込まれた一戦。連勝中、最も劇的な一局です。
この対局で藤井は珍しくミスを連発し、鋭く寄せられます。藤井の玉は上から追い詰められて、あと一手で負けという局面です。対戦中継を見ている観戦者のほとんどは、藤井の負けを覚悟したと思います。
そこで藤井は、連続王手で澤田六段の玉を誘い出し、最後に桂馬で王手をかけます。これが藤井の仕掛けた乾坤一擲の大勝負、澤田六段のミスを誘う一手でした。相手が間違いを選んでくれれば、逆転の可能性が生まれます。
澤田六段の選択肢は2つです。玉を逃がせば藤井の負け、桂馬を取れば勝ちです。残り時間はなく、一手一分の秒読み。結局、澤田六段は読みきれず、選択を誤って、藤井が逆転勝利をおさめます。
これは相手のミスに賭けた一か八かの勝負手であり、コンピュータなら悪手と判断するでしょう。勝負師としての強さと土壇場のひらめき、藤井の持ち味が全面開花したような一戦でした。
ちなみに、この対局では藤井が「僥倖」という難しい言葉を使ったことでも注目されました。
「今日も苦しい将棋で、(20連勝できたのは)自分の実力からすると僥倖としか言いようがないと思います」
将棋界で古くから使われる常套句で、「思わぬ幸運」という意味です。