死に追い詰められた大学教授が熊野を目指した理由
2018年03月25日 公開 2020年02月05日 更新
なぜ熊野で老い、病気、死への不安がやわらぐのか
金山秋男(かねやま・あきお)
明治大学法学部教授。国際熊野学会副代表。明治大学死生学・基層文化研究所代表・コーディネータ。明治大学死生学・基層文化研究所代表。
1948年栃木県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専攻は死生学、宗教民俗学。主な著書に『歎異抄』、『親鸞聖人の教え「歎異抄」を書き写す』(ともに致知出版社)、共著に『日本人の魂の古層』(明治大学出版会)、『古典にみる日本人の生と死』(笠間書院) 他。
“ほどよい枝”を探す日々からの脱却
熊野古道、熊野三山、那智の滝……観光名所として多くの人が訪れる熊野。
和歌山県、三重県にまたがり山深く、水豊かなこの地が”生老病死”との付き合い方を教えてくれる。
熊野という場所は東京から5時間半ほどかかります。
日本の各地域のなかでも、時間的には東京から最も遠い場所だと私は思っています。
京都からは近い。しかしながら、熊野は京都と日本とその歴史における存在意義は真逆です。京都は文明。熊野は文化。国際熊野学会に関わってもう20年近く経ちますが、熊野を訪れること47回にして、ようやく熊野のことが分かるようになってきました。
熊野について以前から様々な場所で話していたが、今思えば何も分かっていませんでした。
私は今でこそ、死生学、宗教民俗学を専攻していますが、30代のころは英文学の研究をしていましたが、この頃精神的に追い込まれ苦しんでいました。
自分の首をくくるためのほどよい枝を探す日々を過ごしていた時期があります。
いのちのリズムが狂ったとでもいうのでしょうか。ちょうど上の娘が3歳を迎えたばかり、妻子を置いて死ねない。葛藤のなかで本当に苦しみました。
夏目漱石の『行人』という小説に、私と同じような精神状況に追い込まれた兄が、「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」というセリフがでてきます。
この作品の影響で、私は鶴見の総持寺で座禅を組むことから始め、それが現在に繋がる宗教学への第一歩となりました。
2001年、仏教、キリスト教その他とさまざまな宗教に触れる日々のなか、大学から1年間のサバティカル(研究休暇)をもらえることになりました。
そこで家族全員でイギリスへ行って研究しようと考えていた矢先に、娘が病気になってしまいました。
日本から離れるわけにはいかなくなり、娘の病気快癒祈願も兼ねてお遍路でも出ようと。47日間かけて、遍路が9月に終わりました。
まだサバティカルは半年ある。何をしようかと考えていたところ、突然頭に浮かんだのが熊野の存在だったのです。
それまでまったく興味がありませんでした。呼ばれたとしか言いようがない。
熊野に関する資料を求めるべく向かった先の小さな書店で、目に飛び込んできたのは山積みの「別冊 太陽」。楠本弘児という写真家の方の熊野の写真集を見て度肝を抜かれました。
翌日から熊野古道に向かうこととなるのですが、それ以降20年近くも熊野と関わることになるとは、この時は考えていませんでした。
熊野は「死と和解すること」ができる場所であり、古代からの日本人の想像力に触れられる場所だったからです。そこに僕は惹きつけられました。