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生き方

死に追い詰められた大学教授が熊野を目指した理由

金山秋男(明治大学法学部教授)

2018年03月25日 公開 2020年02月05日 更新

青木ヶ原樹海からの電話と老病死との向き合い方


 

ある日、電話がかかってきました。

山梨県警からでした。「こういう名前の人を知っていますか?」と。

僕のゼミの元学生でした。卒業後に証券会社に入って、がんばっていました。

その元学生が青木ケ原樹海で保護されたと。樹海に入っていくのを見かけた人が異変を感じて、通報されて捜索隊が出ました。

なんとか保護されたのですが、そのときに僕の名前を言ったようです。

多くの日本人の意識のなかには、家も会社もかなぐり捨てて、消えてしまいたいという願望が潜在していると思っています。

俳人の尾崎放哉も東京帝国大学を卒業後、保険会社へ就職し、出世し、順風満帆な人生を送っていたのに、それを投げ捨ててしまいました。

消えてしまいたい、とはすなわち死。

僕はここまで死に方の研究をしてきました。日本人にはたっぷりと死に方の研究の蓄積があります。たくさんの往生伝があります。断食などもその典型です。

西洋で残る死に方の話では概ね毒薬をあおっています。ソクラテスもそうでしたが、日本には多様な事例があります。

その死と熊野は密接な関係があります。

「補陀落渡海(ふだらくとかい)」をご存知でしょうか?

補陀落とははるか南方にあると言われている観音浄土です。

その補陀洛を行者が船で目指すのが補陀落渡海です。

しかし、この船は中に30日分の食料と油だけを積み込み、外から釘をうち板で塞がれた状態で送り出されます。

つまり海に出たら返ってこられない捨身業です。

この補陀落渡海の57例の記録がありますが、そのうち26例が熊野から出ています。補陀落渡海が室戸岬あたりから出ていったという事例もありますが、熊野は特別な場所だったのです。

「蟻の熊野詣」と言われるほどに、熊野は古くから参詣者で賑わっていました。そして上皇や法皇が100人以上訪れていた場所です。

後白河上皇の参詣には818名の随行者がいたほどです。

僕はその熊野を歩きました。古代人が何を考えていたのかを求めて歩きました。研究者として歩くのですが、カメラもノートも持たず、完全なる丸腰で。

そのなかで気づいたことは、熊野にいるときの自分は、東京にいる自分とは違う生き方をしているということでした。

熊野信仰の背後には神話があります。熊野にまつわる伝承には、生老病死にかかわるすべてが内包されています。

現代に生きる人々は老いや病気や死をある種の「ケガレ」として忌避します。熊野という土地では老病死に際しても、あたふたすることもない人々の姿を見ました。文献も多数あります。

そこに、元来の日本人の魂の古層を感じさせられます。

熊野を学ぶということは、日本人の一種の祖型のようなものがそこに残されていることを発見することにつながります。

その祖型に触れれば、日本人がこれまで老病死と上手に向き合い、自分と対話することの大切さが見えてくるのです。

そのおかげで僕も今、こうしてみなさんと楽しくお話できています。
 

※本稿は2018年2月22日に明治大学で行われた「いのちのフォーラム」での講演をもとに構成されています。

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