喧騒の中でこそ「平穏」であることの価値が見えてくる
2018年05月22日 公開 2018年05月22日 更新
いつの時代も「平穏さ」を守ることこそが最も難しい
そもそも、人間にとっての「一大事」とは、なんだろうか?
政治家であれば「国家」が主要な関心事であろうし、学者にとっては「真理」が、そして芸術家にとっては「美」が大切なのかもしれない。
しかし、これらのすべてはいわば「イデオロギー」である。
そのようなものに夢中になることも、ときには大切であろうが、一方で、誰にとっても変わることのない、日常生活というものがある。
小津は、『麦秋』と『東京物語』の間に、『お茶漬けの味』という作品を撮った(一九五二年)。すれ違いかけた夫婦が、日常の大切さに目覚めて、最後は一緒に「お茶漬け」を食べて和解する。朝鮮戦争がようやく休戦になるか、という年にこのような映画を撮っていた小津安二郎は、やはり尋常ではないと言えるだろう。
「平穏さ」の理由は、ときに隠されている。
沖縄を舞台にして作られた名曲、THE BOOM(ザ・ブーム)の「島唄」は、実は沖縄戦をモティーフとしている。しかし、そのどこにも、戦争の悲惨さや、反戦といったものは、表面的には出てこない。
この歌に出てくる「ウージぬ森」とは、つまりサトウキビ畑のことであり、サトウキビ畑に鉄の雨を降らせた、沖縄戦の烈しさを背景としている。
「島唄」は、「このまま永遠に夕凪を」と歌う。戦争の悲惨さを知っているからこそ、ごくありきたりの夕凪の価値がわかるのである。
平穏を守ることの難しさ、決意の尊さが照らし出される。
椎名誠さんの『哀愁の町に霧が降るのだ』は、貧しい共同生活をする若者たちを描いた、青春小説、エッセイの傑作である。
高校生くらいから、繰り返し愛読してきたが、あるとき、そういえば、描かれている時代は、学生運動華やかなりし頃だったはずだと、はっと気づいた。同時代を生きた椎名さんが、社会の騒々しさ、もっともらしい言説の流行に目を配らなかったはずがない。
それにもかかわらず、『哀愁の町に霧が降るのだ』には、学生運動の「が」の字も出てこない。ただ、陽の当たらない下宿に身を寄せ合って生き、たまの休日にはわっせ、わっせと近くの河川敷まで布団を干しに行き、そのあとカツ丼を食べるのを何よりの楽しみにしている「食えばわかる男」たちのことしか出てこない。
結局、本物の「平穏さ」には元手がかかっている。
いつの時代にも、最も勇敢な人は、喧噪のなかで「夕凪」を貫く人なのだろう。
※本記事は、茂木健一郎著『ありったけの春』(夜間飛行)より一部を抜粋編集したものです。